桑田ロードを知っていますか。1990年時代の巨人軍を支えた桑田真澄投手。PL学園高校時代は清原和博とのKKコンビとしても世間を騒がせた名投手だ。そんな桑田が、95年の阪神戦で右肘の靱帯断裂によって661日もの間試合に出れない日々が続いた。逆境でも今できることをやる、桑田選手の伝説。

鳴り物入りで巨人軍へ入団 大学進学を表明するも撤回

KKコンビとして一世風靡していた

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1985年のドラフト会議にて、清原和博は尊敬する読売ジャイアンツ・王貞治監督の下でのプレー、巨人入団を熱望する。桑田真澄は早稲田大学進学を表明。その結果、清原はドラフト指名が競合する一方、進学志望の桑田へのドラフト指名が回避されると思われた。しかし、ドラフト会議では巨人が進学志望の桑田を1位で強行指名して交渉権を獲得。

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当時、大学進学を表明していた桑田を巨人があえてのドラフト指名。様々な憶測も飛び、後にKK事件とも呼ばれる騒動にもなった。

「西武は清原と桑田のダブル獲りを画策しているのではないか」。その読みは当たらずとも遠からずだった。「清原1位は決まっていたが、1位で桑田をどこも指名しなかったら、行こうと考えていた」と根本は後に明かしている。その上で、こう付け加えた。「さすがは巨人。早大進学の意思の硬い桑田を敢然と指名した。あれがプロの仕事だ」。

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球団側としても当時の2大ルーキーの獲得は重要事項であった。

巨人軍入団後も大活躍 選手生活は安泰なはずだった

 1年目の86年は5月に初登板、6月に初勝利を挙げたものの2勝1敗に終わって深刻な自信喪失に陥ったというが、2年目は15勝を挙げて最優勝防御率、沢村賞、ベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞するなど大きく飛躍。

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1994年シーズンは、14勝11敗、防御率2.52、奪三振185の成績を挙げ、最多奪三振のタイトルを獲得。シーズンを通しての活躍でセ・リーグ最優秀選手 (MVP) に選出される。8月13日の阪神タイガース戦(東京ドーム)では、セ・リーグタイ記録の16奪三振(毎回奪三振も記録)で完封[40]。また、10.8決戦で、7回から救援登板、9回までを無失点に抑えて胴上げ投手となる。

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1995年6月15日 悲劇は起こる

1995年6月5日の阪神戦。湯舟選手の放った三塁線沿いの小フライをダイビングキャッチする際、右肘を人工芝に打ちつける。

 その際の衝撃で右肘側副靱帯が断裂。手術のため渡米し、残りシーズンと1996年を棒に振った。

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治療のため、自身の左手首から健全な靭帯を移植する手術(いわゆるトミー・ジョン手術)を受けることを選択し渡米。1995年シーズン残りと1996年を棒に振り、1997年4月6日の試合で661日ぶりに復帰。

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「ボールは無くても、下半身は鍛えられる」桑田は走った

ジャイアンツ球場にはかつて「桑田ロード」と呼ばれた、柴が剥げてしまった走りこみの後がありました。
1995年の右肘側副靱帯断裂と言う大怪我からの復活、ボールが投げられない時期に桑田選手が毎日走りこみを続けた足跡がそれです。

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2年ぶりにマウンドに立った桑田投手はマウンド上で深いお辞儀をして投球に入った。あのシーンは本当に涙が止まらなかったよ。お帰りなさい、桑田選手。

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桑田の逆境に立ち向かう名言が深く刺さる

どんな選手もいいときばかりではない。
打たれても気持ちを切り替え、悪い時を短くし、
いい時を長くするのが、プロの世界で生きていくには大事。

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僕たちも逆境に腐らず、今できることをやろう。悪い時を短くし、いい時を長くする。

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