誰?

あまり名前に記憶のない方が多いと思いますが、新選組の参謀を務めた伊東甲子太郎の剣の師匠のひとり、ということで名前が登場する人物です。どちらかと言えば通称はタケシロウと読むことが多い人物です。

この人の故郷、愛知県豊橋市に先日行ってまいりました。

豊橋駅から近い場所が生家跡

金子健四郎が生まれたとされる魚町

出典筆者撮影

豊橋市は江戸時代、吉田藩大河内家の所領でした。金子家は魚町で魚商をしていたとされます(ただ、水戸藩に仕官する際の紹介状では医師の息子にされている)。渡辺崋山に師事し、崋山が幕府代官江川太郎左衛門英龍や神道無念流斎藤弥九郎と交友があったことから、その縁で神道無念流を学んだと思われます。

ヤマサが紹介する魚町の案内板

出典筆者撮影

ヤマサと言っても醤油の方ではなく竹輪(チクワ)業界で知らない人はいないほどの名店です。そのヤマサが独自に魚町の案内板を設置しております。残念ながら金子健四郎について触れているところはありません。

父の墓碑が現存する

とりあえず、『剣客金子健四郎』(東三文化研究会編・東三偉傑史伝綜合講座第1輯)をもとに菩提寺とお墓の写真が掲載されておりましたので、花園町の仁長寺へ参りました。お寺の方に聞いても不明でしたので、墓所を教えていただきましたところ、現存が確認できました。

水戸産の石で建立された父の墓碑

出典筆者撮影

とりあえず御花が活けてあるので無縁ではないと思いますが、門徒さんは金子姓ではないようです。一度火を潜っているように見えますが、さきほど紹介した書籍?(1932発行)の口絵写真を見ても経年劣化程度に窺えます。

建立者は金子健四郎で、天保甲辰九月念八日(1844・弘化元年)とあります。

墓石が失われた寺院もあった

先ほど紹介した書籍?には、京都で客死した健四郎の門人が浜松の玄忠寺に追想墓を建立したと記載され、同寺院にも訪れてみました。親切に住職が教えてくれたところでは、浜松は空襲が激しく、寺にも焼夷弾が落ちたそうです。その後、区画整理で墓所を別の場所へ移した際、おそらく廃棄されたのでは?と教えていただきました。多分に寺院内にある碑石でも破砕した碑が見えたので、その墓石も文字の判別も出来ないほどに被災したのではと推察いたします。

おわりに

生家の地元ではすっかり忘れられたのでは?と思われる金子健四郎ですが、実孫の安藤徳器が「金子健四郎と其時代」(1926・昭和2)を刊行したことに触発されて、地元で発足した会の1号で採りあげられたようです。

ただ、その以降、明確に調査された痕跡を確認できておりません。とりあえず、豊橋にこういう方がいて、その痕跡が残っていることを知っていただけたら幸いです。

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在野の歴史研究家です。主に幕末維新の人物史を中心に研究活動を行っております。

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