このところ、ずっと苦戦しております。職場はパソコン教室で、午前と午後の間に昼食と休憩時間があるのですが、その時間、私たちスタッフは、事務所に入らず、生徒さんたちとフリートークをしながら昼食やおやつを食べています。
もうそろそろ一年くらい経とうかという後輩にてこずっております。

皆さん、会話泥棒って聞いたことありますか?
会話の最中、なんでも自分の話題にすり替えてしまう、こんな状態を会話泥棒というのですが、これが過剰な後輩さんのことで、苦情とまでは言わないけれど
「あの人は自分の話ばかりするね」
「なんでも入ってくるから話が横道に逸れちゃって」
なんて言うことをちらっと…。
世間話や雑談もパソコン教室に通うモチベーションのひとつとなっているので、これをコントロールできるようになってもらえないかと試行錯誤、苦戦中でございます。

主語が「私」になっていませんか?主語を「あなた」に変えると会話泥棒を卒業できる

職場の話なので、それを念頭に入れて読んでいただきたいのですが、私たちはその場に「スタッフ」として存在しています。その場を盛り立てたり、学びの環境を整えたりするためにそこにスタッフとしているわけでして。
できれば、そこに集う人たちが潤滑にコミュニケーションが取れるように、「話に入れていない人はいないかな」っていう視点でその場にいてほしい、それがスタッフがその場にいる役割だと考えています。

ところが、その話を何度しても意味が伝わらないのか、いつまでたってもそれが改善されない。苦情とまではいかないけれど、何かしらの火種になってはいけない。改善方法はないかと数か月にわたり彼女を観察した結果、ある事柄に気付いたのです。

それは、何を話すときでも「私」という言葉を使っている、です。

例えば、お客様が「●●へ旅行に行ってきたの」と話し出せば、「私も行ったことがあります、●●に行ったんですけど●●が美味しくて・・・・・・(この後はひとりでペラペラ)」。
違うお客様が「うちの孫がね、●●なことしてね、困ってしまったの」なんて話し出せば、「うちの子も困るようなことばかりするんですよ、この前も~(もちろんひとりでペラペラ)」

何を話すのも「私」だ…、何か心理的なものがあるのかとネット検索したら、これか?と思えるページを発見。

この記事を読んで思い当たることが…。

仕事を教えようとしても「分かってます」「了解です」と早々に切り上げようとする。
念押ししようものなら「分かってます!できます!大丈夫です!」と若干キレ気味になる。

そこまでいうなら、とお任せしておいたら、締切ギリギリになって「できません」と言ったり、お、今回はできないとは言わないな、と思っていたら、仕事そのものを理解できていなくて大きなミスをしたり…。

とりあえずこういうときって、申し訳ないっていう気持ちを表すのが一般的だと理解しているのですが、彼女は違います。

「教えてくれなかったから」「言ってくれなかったから」と責任を投げてくる。内心「はあ?!」とは思っていますが、私にとっての最大の苦痛は業務に支障をきたすことなので、問題解決に奔走します。そうなれば一般的な後輩としては、申し訳ない気持ちになって何かしらのアクションを起こそうとするんじゃないかと思うのですが…。

おっと、愚痴ってしまった。いけない、いけない。まず「一般的な」という自分の色眼鏡を外さないとダメですね。

そこで主語を「あなた」に変えてみて先ほどの事例を見てみると、こんな感じになるかと。

お客様:●●へ旅行に行ってきたの
私:(あなたは)誰と旅行に行かれたのですか?
お客様:友達と一緒に
私:そうですか、(あなたは)楽しい旅行になりましたか?
お客様:楽しかったよ
私:(あなたは)何が一番楽しかったですか?
お客様:きれいな景色がたくさん見られて、美味しいお料理が食べられて、友達ともいっぱい話ができたの
私:そうですか、楽しかったんですね。(あなたは)どこの景色がオススメですか?写真とかあったら見せてくれませんか?
お客様:いいよ、待ってて(と言ってカメラの写真を見せてくれる)
私:きれいですね~、見てくださいよ、きれいですよ(と言って別のお客様に写真を見せる)
そこでお客様同士が写真を見ながらの会話が始まる→お役目終了!

こんな感じでしょうか。

ちょっとの間違いくらい素通りしてあげましょう。間違いだと気付いているなら話の内容は分かっているということだから

もうひとつ、気付いたことがあって、彼女は相手の間違いや言い間違いを見逃さない。上げ足を取る、という言葉がぴったり。

「それはこうですよ」

と必ず言う。ひどい時にはスマホを取りだし、意味を調べ始め、ネットに書いてある情報を見せて「ほら!」っていう顔をする。

上司の上司(私の上司)が配った進行表の誤字脱字すらも正さずにはいられない。一度、接続詞について「が」より「に」のほうがいいと思う、と言い出したことがあって。
そこに集う人すべてが(そこはどうでもよくない?)と思っている空気を感じることなく、そのほうが意味が通じるとかなんとか。

上司は自分のミス?を指摘されたと思ったのか、「『が』だと意味が違ってくるのですか」と応戦状態になりまして、その場が一気に冷え込んだ。

そこで意味が通じる、と彼女は大勢の前で上司のミス?を指摘したわけですから、意味の違いを説明できるのかと思ったが、「なんとなく…。でも意味が違うと思うんです」を繰り返すのみ…。まさか、とは思いますが、感覚的なもので上司に向かって指摘したのか…とさらに凍りついたことがありました。

違うと気付いているなら、何が正解かを自分は分かっている、使い方を正すのは人前ではなくこそっとすればいいだけのことではないかと思う。上司が出したものがどこまで出ていくのかによって誤字脱字なんかは見逃してもいいような気がする。

ただ、それを人前でやることに彼女の中の意義があるのではないだろうかとも思う。誰よりも自分が上である、もしくはありたいという心理がそうさせているのではないだろうか。

会話泥棒をしてしまう人の心理、うちの後輩を観察して考えてみた

ここからのものは、うちの後輩を見ていて感じた私の主観です。

もしかしたら、ですが、「認められたい」っていう承認欲求なのかもしれない。そして、「誰よりも優位に立っていたい」という心理が働いているような気がする。

それを自分に置き換えて考えてみた。仕事で認めてほしい、自分の存在を認知してほしい、好きになってほしい?すべてが「ほしい」で終わる。ほしがっているということなのだろうか。

優秀だと思われたい、その心理は理解できます。私にだってその気持ちがないわけじゃない。少なくても私自身はそう思われたいという心理が働くことがある。上司に仕事ができると思われたいですもの。

優秀だと思われたい心理の奥に、自分自身が自分という人間を認めることができていないんじゃないかとも思えた。自信が無い?そうなんじゃないかとも思った。
自分自身が自分を認めることができないから、他人に認められたいんじゃないだろうか。

だとするなら、いつまでたっても自信を持つことなんてできないんじゃないかと思う。自信とは、自分を信じることと書く。私が思う自信とは
やろうとする気持ちややり続けよう、やり遂げようとする気持ちを信じること

であって、力があると信じることではないと(それは自惚れだと思います)。

自分は無力で弱い、ひとりではなにもできない、ということを認めること、自分の中のネガティブな要素に向き合い、なんてやつだ!なんて思いながら、自分にがっかりしながら、でもやりたいことに向かって、そんな自分を受け止めながら動くこと、それが信じることだと思っています。

そんな自分でももし思いが叶えられて物事が成功したとき、それはすべて周りのおかげだと感謝することができます。お陰様でという言葉がありますが、まさにそれです。

もしかしたら、彼女は自信という言葉を私とは違ったとらえ方をしているのかもしれない。自信の無さが、彼女の会話泥棒の動機、なのかもしれない。

というわけで、この仮説を持ってもうしばらく観察を続けようと思う。その結果は後日またご報告…できたらいいな(私の感情が持ちこたえることが出来たら、です)。

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