佐那でないと許さん!という勢力

司馬遼太郎の小説や、平成22年(2010)の大河ドラマで放映され、一時的に人気が爆発した千葉さな、ですが、必ずと言ってよいほど、「佐那」表記がされております。なかには「佐那でないと許さない」と言われた勢力もあり、この定着について、少々考察してみました。

カナだと文章が読みにくい

明治期に新聞や『女学雑誌』に取り上げられた際、「サナ」「サナ女」と表記が目立ちます。実は、文字を読む際、「さな」では読者が誤読することを配慮したようです。それで今後は「さな子」の表記が目立つようになります。

佐那表記は戦後

筆者が確認したところ、「佐那」表記が定着したのは司馬遼太郎の「竜馬がゆく」のようです。同作は広く一般に読まれたことで、読者に浸透し、以後、坂本龍馬作品で取り扱われるようになると、「佐那」と記載されることが増えてまいりました。

戸籍上も過去帖も「さな」

ただし、戸籍上は『千葉さな』と表記され、本人自筆では「佐奈」と記載しております。

「那」にしても「奈」にしても、ようは当時の「変体かな」であり、ひらがなの原字ということになります。

つまり、本人の意識では「さな」の変体字は「佐奈」であり、「佐那」ではないのです。実際に、千葉定吉のご子孫が所持する神牌には「千葉佐奈」とあります。

もちろん、菩提寺として戒名が付与された東京の仁寿院も「さな」表記であり、「佐那」表記ではありません。

熊木家の墓誌に刻まれた千葉さなの名前

出典筆者撮影

過去帖等をもとに「千葉さな」としている

長刀の免状に書かれ、御殿女中となった際、使用された名称?

では、「佐那」の語源は司馬さんの創作かというと、そうではありません。実は千葉定吉道場で長刀の目録等を与える際に漢字表記をする必要があったため、千葉定吉が当て字として使用していたのです。

のちに宇和島藩に女中奉公した時期もあり、そのときにも漢字表記することがあり、「佐那」と、宇和島に遺る「藍山公記」に記されていたようです。

「佐那」表記はごく短い期間

このように、「佐那」表記も存在しましたが、これは安政5年(1858)までと確認されております。この年に坂本龍馬と婚約したということで、名を「とめ」と改名していました。漢字表記では「於留」になっております。おそらく坂本龍馬の婚約は破談になって名を戻したのでしょう。

おわりに

筆者が平成22年(2010)より調査しているときより、「佐那」表記に執着する勢力があり、非常に困惑したものですが、要は本来の表記である「さな」であれば中立性もあり、なおかつ本人が使用していたのですから、わざわざ漢字表記にすることは固執したい理由があると解釈しております。そうした意味で、当分はこの不毛な論争は続くのではないかと困惑することでしょう。

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在野の歴史研究家です。主に幕末維新の人物史を中心に研究活動を行っております。

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