北陸新幹線が開通し、朝の連続テレビドラマの舞台にもなり注目を浴びている金沢。

「加賀百万石」で知られる歴史ある城下町ですが、ここを舞台に活躍した一人の豪商の話をお伝えしたいと思います。

銭屋五兵衛

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五兵衛は銭屋の当主が襲名する通称で、幼名は茂助といいました。

初代から数えて三代目。いわば「三代目銭屋五兵衛」にあたります。

浮き沈みの激しい前半生

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海運業進出へ

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最初の海運業は39歳の時、質流れで手に入れた中古の北前船による廻米でした。

鉄道も自動車もなく。陸路は大量運送が不可能でした。

加えて関所による「通行税」と検査による「足止め」があった時代です。

そんな中、海と河川と使った、船による物資輸送は大量輸送を可能にしていました。

さらに関所による足止めもなく短期間での輸送が可能でした。「ハイウェイ」でもあり、「フリーウェイ」でもあったのです。

しかし一方、海を渡る船は難破というリスクが付きまといます。

無事到着すれば莫大な富をもたらす。が、失敗すれば膨大な損失をもたらす可能性もある。

※廻米・・米が余っている場所から不足している場所へ輸送すること。

50半ばにして起つ

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そして銭谷五兵衛の転機となったのが天保の大飢饉(1833~1839)でした。

天保9年(1838年)の春、江戸の大火で江戸城西の丸が焼け落ちた。幕府は、建て直しに60万両かかると算定。その費用を12の有力な藩に割り当てた。加賀藩は、総額の4分の1を超える約16万両を負担することになった。

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なんとなく「かなりの負担額だな...」というのは想像できるかと思われます。

ちなみに、

肥後の細川家は85000石、土佐の山内家は35000石である。これを見ても加賀藩の負担が、いかに大きかったかが分かる。

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ちなみに肥後の細川家は54万石。土佐の山内家は20万2600石。

一石=一両で計算すると一見平等な割合のようにも思えます。

しかし江戸後期になると貨幣経済に移行しておりますので加賀藩だけ現金での負担ということは...

Q.16万両ってどのくらい?

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現代的な表現に表しますと...

官邸が焼けました。で、960億円ちょうだい

何をふざけたこと言ってんだこの総理大臣は

...って感じでしょうか。

と、まあ冗談はともかく。

この負担を何とかしなければならないと加賀藩では豪商を集めて金策を練ります。が、どうにもこうにもなりません。

(まあ、当然ですよね...言いだしっぺがどうなるかってわけですし)

そしてその時、加賀藩では...

奥村は加賀の豪商たちを集め、金策を持ち掛けるが、だれも黙っている。発言すれば、負担することが分かっていたからである。その時、銭屋五兵衛が4000両近い御用金を一人で調達すると申し入れた。

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※奥村・・・加賀藩家老・奥村栄実(おくむら てるざね)

この功績が認められ、以後、銭谷五兵衛は加賀藩から様々な特権を付与されます。

そして藩の御用商人としての地位を確立していくことになります。

そして「海の百万石」へ

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宮腰の本店を中心に松前、青森、新潟、酒田、長崎、大阪、江戸など全国に34箇所の支店・出張所を設け各地の得意先商人と信用取引や情報交換による全国的なネットワーク体制を確立

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全盛期には、一説に大小あわせて200艘余りの北前船を所有していたという。

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敷金積立制度

農水産物の生産状況、価格、景気の変動など頻繁に便船、飛脚に託して掌握、また為替による代金決済や海難事故に備えて荷主に保証金を事前に渡しておく「敷金積立制度」を導入した。

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近代国家の成立に先駆けて導入された「保険制度」

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敷金積立制度において特筆すべきはこの「海上保険制度」です。

従来の海上交易において最も恐れられていたものが、

・難破により、船も積荷も沈む

でした。

基本的に代金は後払い。

海運業者は海難事故があった場合、その時点で「ご破算」になるリスクが非常に高かったのです(当時の帆船や航海技術の問題もある)

それを補う役割を果たしたのがこの制度でした。

これにより海上交易は一気に活発化していきます。

時代は1840年~50年代。五兵衛60代の頃。既に近代国家に先駆けた制度の確立を見据えていたといえるのではないでしょうか。

※黒船来航が1853年。
 明治元年が1868年。
 広岡浅子が大同生命の創業に携わるのが1902年である。

鎖国体制の下、世界へ

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藩から特権を得ていた五兵衛は国内のみならず海外にも進出を図ります。

当時は鎖国体制化、当然海外への渡航は禁止。海外貿易も当然、「密貿易」です。

しかし藩へ多額の御用金を収めていた見返りとして、半ば黙認されていたようです。

※一説によると北はカムチャッカ半島、南は香港辺りまで進出し、ロシアやイギリス、アメリカとの取引があったともされておりますが正式な形での資料は残っていないようです。

あくまで伝説的な話に留まるという話もあれば、(これはあくまで私見ですが)もしかしたら密貿易のため詳細な資料が残されていないというのがあるのかもしれません。

かなり信憑性の高い(!?)「タスマニア領有宣言」

《100年前大胆敢為、密かに海外貿易を営み、事顕われて刑せられたる加賀の豪商銭屋五兵衛は、ただ日本近海にて貿易せしものと思いしに、なんぞ図らん、遠く濠洲の領地を有せんとは。濠洲の南部タスマニヤに数個の石碑あり。蒼苔(そうたい)深く鎖(とざ)して文字さえ読み難かりしが、今を去ること5、6年前、吾が軽業師かの地に至り、フトこの石碑を認め、手もてその苔を剥ぎ去れば、下より「かしうぜにやごへいりようち」の13字露われたり。さては加州銭屋五兵衛の領地にてありしやと、いずれも一驚を喫しぬ。しかるにこの事英人の耳に入りしに、英人は直ちにことごとくその碑石を撤去せしめたりと云う。今その碑石を以って境界となすときは、その領地ほとんどタスマニヤ3分の1に亘(わた)れりと》

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ざっとまとめますと...

100年前に海外貿易をし、それが発覚して刑に処せられた加賀の豪商銭谷五兵衛は、単に日本近海のみで貿易していたと思った。

しかしどういうわけか遠く離れたオーストラリアの地を領有すると、同国の南部タスマニアに数個の石碑があるではないか。

苔に深く閉ざされて文字さえ読みがたいのだが、今から5、6年前。軽業師である私がこの地(オーストラリア)に至り、ふとこの石碑を認めて手元の苔を剥ぎ取ってみた。

すると、

「かしゅうぜにやごへいりょうち(加州銭谷五兵衛領地)」の13文字があらわれた。

さては「加州銭谷五兵衛の領地だったのだな」と、一瞬、驚いたものだ。

おそらくその事が現地のイギリス人の耳に入ったのだろう。そのイギリス人はごとごとく石碑を撤去した。

今、その石碑をもって境界を定めるとすれば、その領地の大半。即ちタスマニアの1/3くらいがそれ(五兵衛の領地)であろう。

タスマニアに渡った軽業師のことは、現地の複数の新聞で確認がとれたそうです。しかも石碑発見の日時を、明治20年(1887)1月12日と特定しています。
 石碑を運び去ったのは、当時タスマニア最大のキャンベル陶器会社の社長だそうですが、もし彼が石碑を持ち運ぶ前に日本政府が領有宣言していれば、タスマニアは日本のものだったかもしれない……と思うと、ちょっと惜しいですな。

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単なる与太話ではないらしい...

繁栄の頂点から一転...

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そんな栄華の頂点を極めた五兵衛に暗雲が立ち込めます。

異変が起きたのは、天保14年である。五兵衛の長年の理解者であり、実力者であった加賀藩筆頭家老・奥村栄実が急死。後任についたのが、奥村栄実の政敵・長連弘(ちょうつらひろ)である。
 1848年(嘉永元年)2月、御手船・常豊丸が能登沖で難破。船の建造費用は、すべて五兵衛が負担したのだが、加賀藩は御手船を難破させ、藩米を無事に運ぶことができなかった責任は重大だと、御手船裁許を取り上げた。  

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藩の最大の特権の一つを失ったことにより、海上交易によって巨万の富を得ていた五兵衛は大きな収益源を絶たれることとなります。

時に五兵衛76歳。しかし彼はまだあきらめていませんでした...

干拓事業へ

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銭五開き

河北潟は金沢の北隣、面積約2,300ヘクタールという海に面した県下一の大湖。
 嘉永四年(1851)の計画書によれば、総予定石高4,600石、工事は20ヵ年。

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この時、五兵衛79歳。

計画通りに完成したとして、完成時は99歳。

もはや存命中に完成を見届けることは難しい一大プロジェクトです。

そして迎えた...悲劇の結末

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ところがこの工事中、思わぬ事態が発生します。

潟に死魚が浮くという事態が発生。中毒死者も出たらしい。
 「銭五、毒をまく」の噂が四方に広まり、事態は一転。加賀藩の政変がらみの疑獄[ぎごく]事件へと発展していく。

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真相は定かではありませんが...

五兵衛は捉えられ。獄中へとつながれます。同時にそれは事実上の死刑宣告に等しいものでした。

加賀藩は、1852年(嘉永5年)8月、藩医・黒川了安に調査を命じ、了安は現地を詳しく調べた結果、湖水の自然腐敗が原因であると報告した。このような報告書が出たにも拘らず、加賀藩は9月3日、五兵衛ら銭屋一族と工事関係者を逮捕。五兵衛は80才という高齢でもあり、牢内で亡くなった。

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いや、冤罪だったといえるのかもしれません。

銭屋五兵衛。享年80歳。真相が定まらないままの獄中死。

一代で栄華を築いだ稀代の豪商の最後として、それはあまりにも寂しいものでした。

悲劇は止まらず...

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悲劇は当の五兵衛にとどまるものではありませんでした。

五兵衛は取り調べの最中、牢死。干拓の当時者であった息子、番頭も磔刑[はりつけ]。処刑者の総数は50人を超した。
 そして、莫大な資産は没収、家名断絶。

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なぜこれほどまでに厳罰が課されたのか?

干拓事業にあたり、

・周辺の漁民から激しい反対に遭った。
・敵対勢力による嫌がらせ。

さらには加賀藩による

・海外貿易により莫大な財産を手に入れた銭屋の財産を没収する目的
・密貿易の発覚により藩の取り潰しを恐れた「責任転嫁」

加賀藩の取った態度とは、御用金の調達という名目で密貿易による多額の利益を上納させるが、万一幕府に密貿易が露見した場合には、銭屋だけに罪を着せ、藩は知らなかったことにするという、まことに虫のよいものでした。

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銭屋五兵衛はいわゆる「政商」でした。

即ち政治家の地位が盤石な時は巨万の富を手に入れる一方、その後ろ盾がなくなった時点でその地位を追われてしまう。

そういう意味では彼もまた、その運命から逃れられなかったのかもしれません。

後年、勝海舟の述懐によると...

「銭五の密貿易は幕府も知っていたが、大目にみていた。加賀の処置は早計だった」

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とはいえ「公然の秘密」だったわけで...

時代が早すぎたのか...

幕末の年表をおさらいしておきますと、

・1851年 干拓事業(銭五開き)開始
・1852年 五兵衛逮捕。獄中にて死去。一族郎党、連座により処刑され家名断絶。
・1853年 ペリーが浦賀沖に来航
・1853年 ジョン万次郎が米国より帰国。旗本に登用され、通訳となる。
・1854年 日米和親条約調印
・1858年 日米修好通商条約調印
・1859年 吉田松陰が処刑される
・1860年 日米修好通商条約調印のため、咸臨丸が渡米
・1863年 薩英戦争
・1864年 第一次長州征伐
・1866年 薩長同盟成立
・1866年 商用・留学目的の海外渡航が解禁
・1868年 明治元年
・1868年 戊辰戦争

五兵衛が非業の死を遂げた何と翌年(!)ペリーが浦賀沖に来航します。

そして米国から帰国した中濱万次郎(ジョン万次郎)は無断渡航の罪を許され、旗本の地位を与えられて通訳として活躍することになります。

※中濱万次郎は漁の最中、海難事故により漂流したところを米国の漁師に助けられ、その後、しばらく米国で過ごすことになります。当時は一旦日本を出国した場合、帰国すれば理由の如何を問わず死罪になる可能性がありました。

二分される評価

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これほどまでの評価があるにもかかわらず、多くの人に知られていないには理由があります。

大きな理由の一つとして、

鎖国下の日本で海外貿易は「犯罪」だった。

即ち、

「外国からの密輸で巨額の富を得た商人」

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要するにこうなってしまうんですよね...

加えて藩に多額の上納金を収めていた御用商人となりますと、

フフフ...銭屋、お前もワルよのう

もう何か、こういう感じにしかならない。

しかし、先程の干拓事業には続きがあります。

100年以上の歳月を経て国家事業へ

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河北潟の干拓は、金沢農地事務局に引き継がれ、昭和38年、国営事業として着手されることになる。
 銭五の埋立工法では、経費がかさみ過ぎ、無理であった。国営事業は埋立ではなく、湖を17キロメートル近い堤防で締切り、潟の水を機械排水するという干拓工法。近代土木技術の輝かしい成果である。
 潟の総面積の60パーセントを干拓、農地造成は約1,100ヘクタールに及んだ。

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そして先駆者として...

しかし明治時代以降、銭五は本当は冤罪だったのではないかという見方をされ、海外貿易の先駆者として評価されています。銭五の悲願であった河北潟干拓事業は、1963年から農林水産省による国営事業として行われ、1985年に完成したのですから、100年以上先の未来まで見据えた先見の明を持っていたと言えるでしょう。

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あの伊能忠敬よりも10年遅れて人生のピークを迎えた...

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商人として成功を収めた後、セカンドキャリアで成功を収めた江戸時代の代表的な人物として、そう、伊能忠敬が挙げられます。

彼が江戸へと旅立つのが40代半ば。当時としては既に「ご隠居」の身分でした。

しかし当の銭屋五兵衛が海運業に進出したのはそれよりも約10年遅れての50代...

「人間50年」
「古希70年」
※70年=古希というのは「70年生きるのは古来稀なりとの中国の故事から」

の時代に50過ぎての新規事業のバイタリティには頭が下がる思いです。

銭五商訓三カ条とは?

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銭屋五兵衛像
作者:都賀田勇馬(1891~1981)
制作年代:昭和7年(1932)
法量(cm):幅15.0 奥行11.0 高36.0
石川県七尾美術館
池田コレクション

 五兵衛は商いにおける信条を、「銭五商訓三カ条」として残している。それには、
一、世人の信を受くべし
一、機を見るに敏なるべし
一、果敢勇断なるべし

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1.世の中の人の信頼を受けるべし
1.チャンスを見るに俊敏なるべし
1.果敢に勇気をもって決断すべし

現代にも通じる名言はないでしょうか。

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