小説では看取ったことになっている

沖田総司といえば、古くは昭和戦前期より映画化されるほど人気を博した新選組幹部です。小説を挙げると枚挙にいとまがありませんが、なかには沖田総司の姉、ミツが看取ったという話も横行しております。そのころの沖田家の動向を追ってみましょう。

慶応4年には庄内に引っ越していた

『栗橋関所史料五』(埼玉県刊)318Pより

出典筆者蔵

上記の通り、栗橋関所の通行記録に沖田林太郎の名が見えます。徳川慶喜が上野に謹慎することにより、庄内・会津の各藩士が帰国するために栗橋関所を通行します。関所なので鉄砲改めがあり、庄内藩は新徴組であってもすでに元込め銃を配備していたことがわかります。西郷隆盛が庄内を丁重にもてなした理由のひとつが垣間見えますね。

つまり、沖田林太郎は2月には庄内に向けて出発しており、当然家族も庄内へ移住したことがわかります。

明治7年に東京へ戻る

沖田林太郎の御添翰願(明治8年還禄地所払下願より)

出典東京都公文書館蔵(掲載届出済)

庄内の記録には鶴岡市郷土資料館にいくつか確認できる文書がありますが、その部分は割愛し、沖田家が東京へ戻ったことをお伝えしましょう。この文書のほか、明治7年には移住を済ませており、同じ仲間の立花高行と同居し、のちに小梅村43番地(葛飾郡小梅町43番地と比定すると、現在の墨田区にある三囲神社の境内の一角に該当する~なお、当時の宮司は元姫路藩士)してに移住し、家禄を返還する代わりに神奈川県下の土地をいただきたいと、願書を提出しております。

最後は日野で暮らした

現時点で取得できる沖田芳次郎(林太郎長男)の戸籍を見ると、すでに転籍したことが理解でき、おそらく還禄地所は日野だったのではないかと推測されます。当時、日野は神奈川県の所管で、親戚のいる土地にいたかったのでしょう。ここで明治16年に死去しております。

結果的に

ここで本題に戻りますが、沖田総司を看取るには、江戸にいなければ看取ることはできません。一家を挙げて庄内に移住していることから、沖田家と縁のある方に頼み、死去後は菩提寺に埋葬を依頼したと考えます。

看病したくとも、さすがに重病患者、特に伝染病患者を移動させるのは困難なので、沖田家としては残念だったでしょうね。

この記事を書いたユーザー

あさくらゆう このユーザーの他の記事を見る

在野の歴史研究家です。主に幕末維新の人物史を中心に研究活動を行っております。

得意ジャンル
  • 社会問題
  • カルチャー
  • エンタメ
  • コラム
  • ニュース

権利侵害申告はこちら

Spotlightのライターなら1記事最大3000円もらえる!日本最大級メディアでライターデビューのチャンス