なぜ相馬主計なの?

新選組フリークなら知ってる最後の隊長、相馬主殿ですが、世間一般には相馬主計として通っております。なぜ、そうなのかを検証したいと思います。

最古の出典は「旧幕府」

旧幕府第参巻第五號より

出典肖像権満了

同誌より

出典著作権消滅

これは明治30年代に刊行された『旧幕府』ですが、この写真解説に主計が使用されたことにより一般化したようです。

『海南流刑史』(尾佐竹猛)より

出典明治42年(1909)尾佐竹猛著、著作権消滅

こちらも主計とされておりますが、「一ニ主殿ト称ス』と紹介しております。尾佐竹は明治に新島へ赴任していたことがあり、その際に纏めたものです。

改名の履歴

実は、相馬主計という名前では新選組時代、ほぼ使用してないことはけっこう知られておりません。

1.船橋吉太郎~笠間藩時代
2.船橋太郎~笠間藩時代
3.船橋時之助~笠間藩時代
4.相馬肇~慶応4年(1868)4月26日
5.相馬主計~明治元年(1868)まで
6.相馬主殿~明治元年以降

このように、主計という名前はほぼ半年間しか使用していないことがわかります。ちなみに笠間藩時代のものは「笠間藩年数帳」(笠間稲荷神社蔵・紙焼きを茨城県立歴史館が所蔵)を引用しております。

主計の由来

本人が名乗った理由は推測でしかありませんが、相馬は慶応4年4月4日に近藤勇が新政府軍に捕縛された翌日に出頭した際に捕縛され、同月25日に近藤勇とともに処刑される予定でした。

ところが、近藤の嘆願により死を免れ、翌日には笠間藩に引き取られております。

こう考えれば、笠間藩から脱走したことにしなければ藩に迷惑がかかります。そのため、主計と改名したと考えられます。

主計の名ではほとんど新選組とは絡んでいない

主計と改名後は彰義隊に加わり、彰義隊壊滅後は幕臣春日左衛門と一緒に「陸軍隊」を結成し、幹部として常磐方面で戦闘を繰り広げます。

同年9月に仙台藩が降伏すると、仙台に出向き、土方歳三と合流します。ただし、この時点で新選組に在籍したのか陸軍隊のままなのかは判然としません。

同年12月、箱館政権を樹立し、陸軍奉行添役に相馬は任命されますが、その際に津田主計(織田主膳の変名)、牧野主計と3人も主計を名乗る者がいてややこしいために主殿に改名したとされます(「新選組のふるさと歴史館叢書第三輯 第三回特別展 新選組 戊辰戦争のなかで」145P参照)。

新島流刑時も使用されていない

箱館戦争終結後、相馬は新選組隊士で唯一流刑となります。その際、

笠間藩船橋平八郎倅、肇事、相馬主殿

とされ、相馬主計の名はありません。なので、多くの人生を歩むなかで、約半年間しか使用されてない訳です(新島流人帳・原本は東京都公文書館蔵)。

最後の存在は明治8年まで

相馬は新島で生活後、明治5年(1872)に赦免されます。その翌年、豊岡県に出仕し、訴訟係に配属されました。ただ、上司であり、箱館戦争の仲間だった大野右仲が上司の田中光儀と対立したことにより、明治8年(1875)2月8日に免出仕となり、以後、消息は掴めておりません。

おわりに

「旧幕府」の紹介した名前により、新選組ではほぼ名乗っていない、それも半年程度使用した名前なのに、相馬主計で通用しているのが昨今の現状、日野市立ふるさと歴史館では相馬主殿と紹介され、筆者も同様に使用しておりますが、どうもなかなかに浸透しないようです。

果たして、地下に眠る故人はどの名前がお気に入りだったのでしょうね。

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在野の歴史研究家です。主に幕末維新史を中心に活動しております。昨年は『斎藤一~新選組論考集』の執筆、編集を行い、子孫の縁を経て、斎藤一の写真を公開する等、メディア活動を行っております。

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