卑怯の小隊長

藤田五郎に改名した斎藤一ですが、西南戦争における記述がいくつかありますが、、同じ豊後口警視隊一番隊分隊長だった千葉束が、当時藤田五郎の上司だった平田武雄を「卑怯の小隊長」と、明治36年に連載された『千葉の名灸』第68回で述べております。

仮にも藤田五郎の上司を卑怯の小隊長と罵られた平田武雄を追ってみました。

千葉の名灸第68回(抜粋)

出典著作権消滅

平田武雄は福江藩士だった

長崎県史料「福江藩史稿」より

出典国立公文書館内閣文庫より(デジタルアーカイヴで閲覧可能)

官員録等で長崎県士族とありましたので、調べてみると、国立公文書館に帰省届が出されておりました。そこにあった福江村を調べると、当時五島家が藩主とする福江藩の領地でした。

幸いなことに長崎県史料のなかの「福江藩史稿」のなかに平田武雄の名を見つけました。

おそらく…ですが、華族家記「五島盛徳家記」のうち、「御達願伺届」に平田熊太郎が武雄の前名だったかと考えられますが、現時点で史料が少ないので断定はできません。もしかしたら、まだ家督者ではなかったことも考えられます。

とりあえず年齢がわかった

明治28年「公文類纂」18巻より

出典国立公文書館蔵

今回、閲覧できなかった平田武雄に関する記載のある明治28年「公文類纂」18巻について、要審査請求を行ったところ、閲覧が叶い、おかげで平田武雄は明治28年(1895)の時点で44歳(1852・嘉永5年)だとわかりました。

これを明治10年(1877)当時の藤田五郎(1844・弘化元年生)、千葉束の年齢(1839・天保10年)と比較すると、

平田武雄 26歳 小隊長 警部
藤田五郎 33歳 半隊長 警部補
千葉 束 38歳 分隊長 警部補

どうやら千葉束とは干支ひとまわり違いますね。こうした年齢差も平田を罵倒することに加味されているのかも知れません。ただ、本当に卑怯な小隊長であったのなら、藤田五郎が負傷した要因を作った上司ということにもなりますので、何とも複雑です。

晩年は冤罪で免訴になった

平田は西南戦争後、会計検査院に奉職し、検査官補まで進みましたが、明治21年(1898)までに退職しております。その後、同年に開設された東京染物会社を清算する際、尽力したそうですが、報酬が払われなかったとして、元警視庁の高島関峰が強談に及び、金品を得たことで、刑事処分を受けることとなりました。

とりあえず、平田については証拠不十分ということで免訴となり、最終的には罪に問われませんでした。

残念ながら、その後の足取りは杳として知れません。もしかしたら五島市(旧福江町)に何かしらの記録があるかもしれません。

子孫が当時の従軍記録でも持ってたら、藤田五郎たちのことももっとわかるのでしょうね。

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在野の歴史研究家です。主に幕末維新の人物史を中心に研究活動を行っております。

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