情報錯綜していることを

ネットでは便利である反面、誤解していることが広まることも往々にしてあるのが現状です。今回は斎藤一に関して間違っている情報をお伝えしましょう。

新聞に載った画像を掲載するのは禁止?

昨年9月5日付で配信された記事に藤田剛(次男)の結婚式に写っている藤田五郎の画像が掲載されており、それについて「載せるな」と騒いでいた御仁がおりました。それどころか、新聞記事を転載した方にも警告する等、過剰なコメントも見られました。

参考;西日本新聞

出典筆者蔵

実は新聞掲載する際にも商業用の転用防止のため、あらかじめ画質は落とされております。また、新聞の場合は画像印刷が特殊なため、どこから転用されたかがわかる状態になっております。

もちろん、タレント等、芸能人は肖像権が発生しますので、むやみに転載することは禁じられておりますが、藤田五郎は死後100年が経過しており、肖像権は消失しております。また、所有権については、転用防止対策があるため、問題は起こりません。


*追記;この写真の所有者と筆者は電話でお話しするほど良好な関係を保っているとともに、逆に無断掲載と騒いでいる御仁とは一切交流を断っているそうです。

西南戦争の写真には何の根拠もなかった

かの写真が出回った際、子孫のひとりが「何故この人物が斎藤一なのですか?」との問いに、「私がそう言ったからそうなの!
と押し切って以来、あの写真がアチコチで斎藤一として使われてきました。本当にそれしか根拠?はありません。

この写真について、西南戦争以前の警視庁研究に余念がない河内貞芳さんは、
「警視庁がこの人物を斎藤一だと言ったことはない」と見解を取ったうえで、

○帽子の階級は巡査であり、警部補の藤田五郎が着用することはない
○藤田五郎の凱旋は東京で、横浜ではない(写真は横浜で撮影されている)

このように、いくつかの傍証もあります。今回、鮮明な写真が出たことによって顔認証すれば一発で本人でないことが確認できるでしょう。

あの肖像画のモデルは藤田勉ではない

どのような事情、時期に作成されたかは不明ですが、藤田家が言うには現在の当主、藤田太郎さんの父、實(まこと)さんをもとに創作されたものです。

実はあの肖像画がいつどこで、どのような経緯で掲示されているかさえ不明なのです。あえて突っ込むことは少々問題が孕むため、この場では申せませんが、その経緯だけでも明らかになれば、自ずと判明することかと存じます。

斎藤一の居住跡を目指して別の場所に行っている

斎藤一は藤田五郎時代に根津宮永町31番地に住んでいたと警視庁職員録に掲載されております。それだけではなく、戸籍上でも藤田勉の出生地もそうなっております。

既出の本では老人ホームが当時の31番地と紹介し、みなさんはそれを信じて訪れているようです。


違います

『新選組を探る』(潮書房光人社)138Pより

出典筆者蔵

この図を見てわかる通り、明治11年まで31番地は斜線部分で、老人ホームの場所ではありません。広範囲ですが、上の図をみればわかる通り、旧会津藩松平家の所有地だった訳です。だから藤田五郎がこの一角に住んでいたのですね。

たぶん歴史を勉強しても、意外に地理の勉強をしない方が多いのが新選組研究家なのですが、東京の地番制度は明治2年(1869)に武家地に町名が付いたところから始まり、明治5年に大区小区制度が発足した際、地番が出来ました(壬申地番)。その後、明治8年に改正され、次第に昭和30~40年ころに行われた町名改正まで使われた地番が続きます。

つまり既出本が紹介する31番地は昭和改正前の地番だった訳です。その後、住居表示制度が出来て現在に至るのですが、旧地番だからココ!と安易に行った結果が今回の錯誤に繋がっております。

おわりに

前二者については論外な内容ですが、最後の項は、本来ならしっかり地誌の勉強をしていれば間違わなかったことなのですが、どうも詰めが甘いと感じますね。おそらく図書館で繰ったていどで結論付けたことが今回の錯誤を導いたようですが、しっかり入念な作業を行わないと、斎藤一ファンがさすらい人になってしまいます。これからはそうならないことを祈りたく存じます。

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あさくらゆう このユーザーの他の記事を見る

在野の歴史研究家です。主に幕末維新史を中心に活動しております。昨年は『斎藤一~新選組論考集』の執筆、編集を行い、子孫の縁を経て、斎藤一の写真を公開する等、メディア活動を行っております。

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