名前しか記憶にないけど本当なの?

昨日、京都新聞夕刊に沖田総司の縁者として島田勝次郎が櫛羅(くじら)藩士として名前を発見したと掲載されました。

正直言えば、島田勝次郎という人物が櫛羅藩士だったということが判明したということですね。残念ながら筆者は名前しか記憶になく、誰?という感覚しか起こりませんでした。最初の一報から、当初は昭和55年(1980)前後に京都の郷土史家、故・川西正隆さんが創作した沖田家の親類書でも出てきたか、と疑ってしまいました。
かつて釣洋一さんが創作した母親の名前ミキ(沖田総司の姉、ミツのとキンのを取って創作した)が記載されるという致命的なミスを犯してしまい、たまにその事情を知らない自称新選組研究家が「新発見だ!」と騒ぐということを10年サイクルくらいに起きるのを見て苦笑いたします。

沖田総司と櫛羅藩との関わり

島田勝次郎は知りませんが、沖田総司とうっすら縁があるのは事実です。

実はあまり知られていないのですが、植木屋平五郎は櫛羅藩の御用達植木職人でした。平五郎はほかに岩村藩の御用達を務める人物で、櫛羅藩と縁があれば、平五郎が面倒を見る必要の可能性が窺えます。


その証拠は菩提寺の安養寺に残る平五郎の碑文で確認ができます。

新宿区安養寺にある柴田平五郎の石碑

出典筆者撮影

そもそも櫛羅藩ってドコ?

関東の人は馴染みのない名前ですが、いまの奈良県御所市にあります。鉄道の駅からはけっこう距離があり、山奥でした。

陣屋より民間に払い下げられた陣屋門

出典筆者撮影

過去に筆者が取材したときに陣屋跡は採石場?になってました。Wikiで見ればわかる通り、ごく短期間に存在した陣屋なので、遺構が少ないのは当然ですね。

酒井意誠とは

『新選組宝典』に戸籍があり、酒井意章の養子です。京都の光縁寺にある「沖田家縁者墓」に対し、弔っていることが同寺の過去帖で確認ができます。これらから類推して沖田総司の恋人?と囁かれております。

ちなみに櫛羅藩の京都藩邸はいまの四条大宮駅辺にあったそうで、光縁寺とは目と鼻の先でした。酒井意誠の養父、酒井意章は京都藩邸にいたと川西正隆さんが酒井家を取材した際、聞いたそうです。事実、櫛羅藩では重臣でしたが、明治4年(1871)に病死しております。ちなみに酒井家の菩提寺は櫛羅の不動寺にあります。

酒井家墓所と酒井意誠夫婦の墓(左側)

出典筆者撮影

同じ藩士だから何?でも土方歳三の親戚が近所にいた!!

東京都公文書館が所蔵する『還禄地所』にある島田勝次郎の添翰願

出典筆者撮影(掲載届出済)

で、島田勝次郎ですが、京都新聞に東京都公文書館に所蔵されるとあったので、寄る予定があったので撮影、掲載届を提出したので掲載します。確かに印影が一致するようです。

角筈新町というのは現在の新宿区西新宿辺にあたります。甲州街道沿いですね。この角筈新町には土方歳三も立ち寄った大和屋清兵衛の屋敷があった場所です。もし繋がっていたら面白いですよね。

東京寄留の理由はわかりませんが、永井家の屋敷は信濃町ということを考えると少々遠いような気もして、この当時に永井家と接触したのかは謎のままです。

おわりに

今回提示された文書は貴重ですが、現時点では点がバラ撒かれたに過ぎません。いつか発表者がこの点と点を繋いで論文として発表されるのでしょうが、それまでは新選組ファンにファンタジーを提供したというに留めましょう。

今後の解明を期待したく存じます。

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在野の歴史研究家です。主に幕末維新の人物史を中心に研究活動を行っております。

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