彼の受けた傷によって、
    私たちはいやされた。イザヤ書53:5

 キリストは十字架にかかって、
みずからその身に
私たちの罪を担ってくださいました。Ⅰペテロ2:24

 コヘレト4:4~12
 エレミヤ書9:22~23
      (ローズンゲン日々の聖句9/7;水)

まことに、彼、イエスは私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。

しかし、彼は、
私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎(とが)のために砕かれた。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼のうち傷によって、私たちはいやされた。

私たちはみな、羊のようにさまよい、
おのおの、自分かってな道に向かっていった。

しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

彼は苦しめられた。
彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれていく羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
彼は口を開かない。

しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、
生ける者の地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、
彼は富むものとともに葬られた。
彼は暴虐を行わず、その口に欺(あざむ)きはなかったが。
(イザヤ53:4~9新改訳)。

イエスが生まれる700年ほど前、
預言者イザヤを通して預言されていたように、
イエスは、私たちに代わって、黙って、十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

 さらに、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は言われます。
「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。
つわものは自分の強さを誇るな。
富むものは自分の富を誇るな。
誇る者は、ただ、これを誇れ。
悟りを得て、わたしを知っていることを。
わたしは主、「わたしはある」という者であって、
地に恵みと公義と正義を行う者であり、
わたしがこれを喜ぶからだ」(エレミヤ9:23~24新改訳)と。

 伝道の書(コヘレトの言葉)4:9~12には次のようあります。
「ひとりぼっちで、仲間もなく、子も兄弟もない人がいる
それでも彼のいっさいの労苦は終わりがなく、彼の目は富を求めて飽き足りることがない。
そして。『私はだれのために労苦し、楽しみもなくて自分を犠牲にしているのか』とも言わない。
これもまた、むなしく、つらい仕事だ

 ふたりはひとりよりもまさっている
ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。
どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。
倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。

 また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。
もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。
三つ撚りの糸は簡単には切れない。」


 「神のひとりのようになろう。善悪を知る者になろう」として、
天の神、主、「わたしはある」と言われる方に対抗している私たちは、
自分一人の理性の判断でことを進めようとするものですが、
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、
「生まれた時からの私」という霊は、処刑されたもの、死んだものとしていただき、
復活し、天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えするなら、私たちは、「ひとり」ではなくなり、いつも、すべてのことを、この方と相談しながら、この方と心を合わせ、思いを一つにしながら、この方とともに生きていくようになるのだそうです。
この方を体験し、知ることを喜びとして。
今日も。


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愛媛県久万高原町の産。仏教大学(社会福祉)、JTJ宣教神学校卒。キリスト教プロテスタントの教会員。

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