私たちは物心のつきだす幼い頃には、親や祖父母から仏さまというものがいて、私たち一人一人の日常をちゃんと見ているのだから正しく生きないといけないと教えられてきているのではないでしょうか。
そして、この世の私たちの側には見えなくても、何か悪いことをすればしっかり罰が当たって牢屋へ入れられたり、地獄へ落とされることになるとも教えられ、正しく生きれば天国へ行くことができるよう、しっかり仏さまは見ているのだと教わっているのではないでしょうか。
   
それに対し、神さまというイエスキリストなどの信仰も別にあって、そこにはアダムとイブの物語があり、二人はエデンの楽園から追放されていくという、子どもには何のことかとてもわかりにくい大人の社会において「人は皆罪人である」と言ってキリストは処刑の代表になることを選んだという興味深い教えがあることに対し、子供なりに知らずとも心を打たれた記憶があるのではないでしょうか?
  
このように神様と仏様を比較したら、何となく神様への信仰の方が特殊で難しい思いがしますね。
そして、難しいことだから尚のこと自然に疑問が湧き続け、興味が出てくるということもあり、習慣づいて目指すべき目標ラインのようにも考えられやすいのではないでしょうか。
なお、その現代のキリストなどの神信仰に対し、日本においてはさらに仏教の宗教団体の活動もたいへん盛んにおこなわれてきましたね。
そこで、その仏教の宗教団体のほとんどは日本国の憲法の保障する宗教の自由において国への団体登録制度が設けられていることによる国指定の団体運営であることをご存知かと思います。
   
実は私も今までいくつかの仏教団体に加入してはその都度に各団体で発行している仏教経典を与えられてましたが、中でも特に日蓮聖人の教えによる法華経を主経典としている団体による、その経典の初めに読み上げる回向文にはいくつかの団体で共通の次の言葉が書かれてあります。
   
『我の心得違い。思い違い。知らず識らずに犯したる罪咎は。霜露の如く作さしめ給え。・・・・家内一同の者。我の心得違い。思い違い。知らず識らずに犯したる罪咎を赦(ゆる)し給え。・・・』
  
この文は法華三部経の本来の経文と共に交え挿入され、経文一体の前文のように示されていますが、この部分だけは実は法華三部経の実際の経文の中には無い言葉なのです。
この一部の指定宗教団体の共通かつ特有と思える挿入文は、だれにもどんな間違いや罪もあり得るから、それを忘れさせ許してくださいという意味であると思います。
   
よって、本来の法華経のすべての経文内においては、勘違いや罪は無意識であろうと意図的であろうと仏様の力で許して無かったことにしてくれるということはないのです。
ですから、犯した間違いや罪は故意・過失に関係なくいずれそのまま結果としてその者に必ず現れてくるというのが仏の真実の教えなのです。
   
つまり、過去からの因果が生ずることに対し、その改善に迫られるのが私たち個人個人の自主責任においてその者の持つ能力に応じて解決を図っていくことが修業である真実を覚えていくことなのです。
そして、個々ではその改善の難しさゆえに仏が改善の知恵を授けてその者の持つ実力を助けるということが正解なのです。
   
宗教の難しさは、神信仰であろうと仏信仰であろうと、そのための修行とは過去の行いへの懺悔など反省が主に促がされるものなのか、それとも未来へ前進する成長を強く促がされるものであるかの判断は、どちらの心掛けが尊いかなどは二つに一つ、誰もが最も迷いやすく、難しく、そして興味深いところだと思います。
その点で、仏教の中での法華経という経典とは特にその反省と成長、つまり過去と未来が同時期に一緒に達成されるという極めて他のどの経典に比較しても無い、独特珍しい不可思議効力であるとして仏教経典の中のもっともすぐれた第一とされている所以であるのです。

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私は、まちづくりをもし専業にできたら素敵だと思っています。
世の中には、国造り、会社づくり、モノづくり、人づくり、お金づくり・・・さまざまな「つくり」がありますね。
その中でも、まちづくりとはわざわざ心掛けて作ろうとしなくとも、放っておけば出来上がるかのような最も漠然と掴みどころのないものに思えます。
しかし今あちこちで、何かとまちづくりが大切であると、なぜ呼びかけが始まりだしているのでしょう?
 
私は、まちづくりの動機の動機と言えば、ただのきっかけだけがカギを握っていると思います。
そして、まちづくりとは案外、国造りよりもっと大きな心がけを必要とするのではないかとも思えています。
それは、誰もが最も身近に感じ得る共通の課題意識であることである共に、一体まちづくりをどうすべきであるかは誰にも直接にはその責任や方法を知り難いことだからだと思います。
いわゆる、自分に直接降り掛からなければどうでも良いことこそが一番複雑で難しい問題であると言えるでしょうね。
ですから、その何か偶然のきっかけが必要なのです。
そのきっかけについて、関心がある人たちで話し合い、実行していけることが本業にすることができれば、私はきっと最高の喜びに違いないと思っています。

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