昨年、母が亡くなった。本人の意向もあり、葬儀は行わず、火葬のみで見送った。

私は自分用にと登録していた葬儀社に連絡し、格安の「火葬式」を依頼した。

遺体の搬送、安置、役所への手続き、斎場での見送りまでを含めた、非常に簡易なものだが、すべてを含んだ費用が約17万円。

価格の安さもさることながら、私はその“楽さ”に驚いた。

十数年前の父の葬儀を思い出し、「火葬式」を選んだことは正解だったと確信した。

父の時は、本人が掛け金を払って会員になっていた葬儀社に依頼した。一般的な葬儀である。

父が亡くなる前は、病状が一進一退で何度も病院に呼ばれ、泊まり込むことも多く、母と私は疲れきっていた。

亡くなっても、ゆっくり休むことはできず、すぐに葬儀の準備をしなければならない。

葬儀社に依頼したからといって、“すべておまかせ”でやってくれるわけではない。葬儀に必要なものを、ひとつひとつ「どうするか?」と聞かれる。

棺桶はどれにするか? 祭壇は? 花は? 写真は? 戒名は?

葬儀に関しては、葬儀社の言いなりになると、とんでもない費用が掛かると聞いていたので、できる限り冷静に対処しようとしたが、疲れきっていたので考えられなくなってくる。

結局、費用は100万円を超えてしまった。なるべく安いものを選んだつもりなのに、100万円超えである。

私は当初、この葬儀社には43万円の掛け金を払っていたので、さほど追加料金は掛からないと考えていた。

それが、倍以上の価格になるとは、信じられなかったのである。

だが、それが葬儀社の“システム”であることに気づいても、時すでに遅しである。

大げさな言い方だが、私はその時誓った。自身の時も、家族の時も、絶対に葬儀はしない、と。

まずは、費用の問題。もし私が亡くなって、そんな金を使うくらいなら、その分家族で美味しいものでも食べてくれ、と思う。旅行にも行ける。当面の生活費にもなる。

次に、心身ともに疲れるようなことは軽減させたい、と思う。

人が亡くなる前後は、本当に疲れる。悲しむ余裕さえなくなる。

大切な人を見送る時ぐらいは仕方のないこと、当然のことなのだが、私自身の時のことを考えると、妻や子にそんな思いをさせたくはない。

とっとと終わらせて、ゆっくりと休んで欲しい。

見送る儀式など、どうでも良い。心の中で、私をどう生かしてくれるのかが大切であって、現実の私は早く処分してくれれば良い。

元々、いまのような派手な葬儀は、日本に存在しない。ビジネスとして確立されたものである。

どう見送るかは、本人の希望や家族の思いなのだが、大切なのはカタチではなく、心なのではないかと思う。

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1961年兵庫県生まれ。神戸学院大学法学部中退。1981年、広告デザイン会社にコピーライターとして勤務。93年、プランナー・コピーライターとして、フリーランスに。仕事を継続したまま、96年、木のおもちゃ制作を開始。ネット販売に着手。その後、「販売の現場」を知るために、5年間スーパーに勤務。これにより、「メーカー」「販売現場」「広告・販促」のすべてを経験。この経験を生かし、2003年より、中小企業・個人商店向けメールマガジン「繁盛戦略企画塾・『心のマーケティング』講座」を発行。関連する情報販売、コンサルティングを開始。メールマガジン他、ブログ9本「Marketing Eye」「ビジネス界隈・気づきの視線」「企画する脳細胞・ビジネスの視点」「まちづくり・村おこしの教科書」「行列のできる『MENU』の創り方」「中高年のための新規開業サポート」「独立・起業の成功法則」「販促の知恵袋」「スキルアップでビジネスぶっちぎり!」を執筆中。現在、繁盛戦略コンサルタントおよび中小企業経営研究会のビジネス・カウンセラーとして活動。著書に「0円からできる売れるお店の作り方(彩図社)」がある。

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