安富才助って誰?

新選組フリークなら知る人もいるのですが、彼は天保10年(1839)に足守藩勘定方安富正之進の子に生まれ、元治元年(1864)までに脱藩し、新選組に入隊した人物です。大坪流馬術を学び、父の素養からか、勘定方や小荷駄方を主に担当しました。人望があったのでしょう。慶応4年(1868)に流山(千葉県流山市)で近藤勇が新政府軍に連行され、解散を命令された後に残った隊士を引き連れ、会津まで責任者を務めました。奥羽戦争では新選組副長として隊長の斎藤一(当時は山口二郎)を支え、箱館戦争では榎本政権を支える陸軍奉行添役として、蝦夷政府の中堅職を担いました。明治2年(1869)降伏後は江戸で謹慎後、翌年に東京で暗殺されたことになっておりました。

本当に暗殺されたのか?

実は暗殺された根拠は西村兼文の「新撰組始末記」のみで、傍証になるものは一切ありませんでした。

この通説を踏襲し、津本陽著の小説「幕末剣客伝」では、新選組にいた中島登を主役としたなかに安富の暗殺シーンが盛り込まれ、その作品がドラマ化されると、自然と暗殺説が定着してまいりました。

ところが、国立公文書館が所蔵する「御預引渡降人名簿」には安富才助が足守藩に引き取られたとあります。こちらは公文書ですので、いままでの通説が微妙に揺らぎ始めました。

岡山県の文書に生存の記録が!

筆者がはじめてその文書を拝見したのは平成20年(2008)4月22日のことでした。広島で文書調査の帰途、09:00から10:24まで時間が作れたので、岡山県立記録資料館に赴きました。事前の調査で足守藩木下家文書が所蔵されていると知ったからです。木下家とは足守藩主木下家のことになります。さっそく9:00に時間通り入館しました。初めてなので、教えを請いますが、どこを見まわしても目録がない。受付に詰め寄りますと…

なんと!カウンターの下に目録が閉まってあることが判明!急いで申請をしました(非公開案件があったことが判明したため、一部ではなく、全部目録を隠してしまっていたすです)。ようやくマイクロが到着し、時間がないので、必要箇所のみを。すると、明治2年(1869)12月の日記に箱館降伏人の安富才輔の名がありました。つまり、間違いなく安富才輔は郷里の足守にいたことになるので、東京にはいないことになります。

そして、明治4年の日記に安富才輔が赦されたとする記事を発見。明治3年に殺害された人間が生きていた証明となります。

墓を発見か?

東漸寺の安富一族墓所

出典筆者撮影

あまりに駆け足な調査でしたので、5月18日、羽田から岡山空港へ。午後、岡山県立記録資料館に到着。先日は慌てて取得したため、マイクロを再度。しかし…マイクロの調子が悪く、そのため、原本で閲覧しました。

5月19日は現地調査ということで、足守藩士に関わる寺院墓地を調査しました。大光寺、乗典寺へ。そしてフト『足守まちなみ休憩処』で教えて貰った東漸寺へ。真言宗の寺院で、安富家の墓所があると言います。この日はご住職が留守でしたので、自力で探すことに。この時点で雨が…

15:10ころ、ほどなく安富一族の墓所を発見。何故か…この一角のみ、雨が遮られておりました!!何かのご加護でしょうか???

で、ここで『安富才助』の名を発見!!!感動したのは言うまでもありません。この墓域を見ると、一番新しい墓所に花が活けてあります。その花がどう見ても活けてから1週間程度のモノと思われました。つまり、岡山県、あるいは近接した県に所在する方ではないかと思われました。墓碑の裏にある名前にあった『安富誠』の名前も朱引き、つまり存命の方とわかります。これで光明が見えてまいりました。

子孫と邂逅、長倉達郎氏とタッグ

帰宅後、子孫探しをしました。するとネット上で『安富誠』さんが代表を務める会社を発見。同一人物かを確認するため、まずは岡山地方法務局高梁支局で法人の謄本を請求しました。

ちなみに法人の場合、代表取締役は居住地が記載されております。法人の謄本から、安富誠さんの住居が判明。今度はその住所の土地台帳を請求するため、岡山地方法務局岡山西出張所へ旧土地台帳の写しを請求。確実性を増すために、再度、不動産の謄本を岡山西出張所に請求。2つの公文書から、当該墓所の末裔と確定したので、直接手紙を安富誠さん宛に発送しました。

6月中に、拙ブログ(無二無三)のコメント経由で安富誠さんから連絡があり、岡山へ旅行の申し込み後、地元の方と一緒したいという気持ちから長倉達郎さんに連絡いたしました。長倉さんは新選組で幹部を務めた永倉新八の本家、松前藩長倉家の当主です。このときは長倉さんに、安富才輔に対して『熱い想い』があったことは知りませんでした。

そして、長倉さんに快諾をいただき、6月30日に安富誠さんと会う約束をいたしました。

長倉達郎さん(左)と安富誠さん(右)

出典筆者撮影

失敗が成功への導火線だった

6月29日、仕事を早めに切り上げ、朝一番の新幹線のぞみ1号で岡山へ向かいました。N700系という一番新しい車輌のグリーン車だったこともあり、人の出入のない新横浜~名古屋間で仮眠が出来ました。
岡山に着いて、さっそく岡山県立記録資料館へ。再度足守藩木下家史料を閲覧。若干の成果がありました。

そうしている最中、待ち合わせしておりました長倉達郎さんがお越しになり、さっそく安富さんのいるN町へ。偶然ですが、10年前はこの安富さんの母親が喫茶店をしてたそうで長倉さんも利用していたとの由。面白い偶然です。
 
そして安富誠さんにお会いして各種話を賜りました。その際、

「あれは才助ではなく文助では…」

後日、史料をいただき才輔の直系ではない可能性が出て来ましたが、上足守の藩士、安富家の家系には違いなく、一族なのは間違いないようです。

6月30日、8:00にレンタカーを手配し、法務局で史料収集の後、今年3回目の足守を訪問しました。今回は守福寺へ参りました。藪蚊の巣窟ですので行く前にスーパーマーケットで携帯ベープを購入し、首から前後に掛けて探検してまいりました。

守福寺に到着。なんか変死体があっても不思議ではない空間です。いたるところに蜘蛛の巣が張られ、道路はいたるところで崩落し、人間の訪問を拒んでいます。

今回、さきほど買ったベープは本当に良かったです。勇気あるテロリストは果敢に攻めてきますが、攻撃する寸前で防いでいます。それでもいくつかは刺されましたが、かなり弱ってたらしく、違和感だけでかゆみはありません。このような果敢な戦闘を繰り広げながらも探しましたが、木下家、石河家等の見慣れた名前の墓碑はあっても成果はなく、そのまま東漸寺にも参りましたが、特に前回の墓域リストの修正に留まりました。

今度こそ安富才助の墓所を発見か!

7月8日、安富誠さんよりメール。『安富才助』の墓が見つかったと。叔母さんがたまたま別の法事で田上寺に訪れたときに、木に生い茂った墓を発見したとの由。その木を払って発見してくださったという時点で神がかりです。

7月13日、新幹線で岡山入り。午前中は岡山県立記録資料館で足守藩日記を閲覧。午後に迎えがあり、安富誠、長倉達郎、山陽新聞の記者、あさくらの4人で田上寺へ向かいました。確かに「安富才助夫婦の墓」と側面に刻まれている墓を確認。そして脇には一族らしき墓碑も発見します。急いでいたため、写真撮影が少ししか出来ませんでしたので、現況、「『安富才助』と刻まれた墓碑を発見した」 に留まりました。これから傍証を集める作業が待っています。

(つづく)

発見当時の安富才助夫婦の墓

出典筆者撮影

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在野の歴史研究家です。主に幕末維新史を中心に活動しております。昨年は『斎藤一~新選組論考集』の執筆、編集を行い、子孫の縁を経て、斎藤一の写真を公開する等、メディア活動を行っております。

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