なぜか家族が謝罪する社会、しないと批判

昨今、一般人、芸能人問わず、犯罪者の家族が謝罪の言葉を述べるというのが恒例となっている。

これは日本特有のものと言って良いほど、海外では見られないものである。むしろ、欧州では親や配偶者がインタビュアーに対し、犯罪者である子どもを擁護するようなコメントを返していることが多い。

当然、個人の問題であるからなのだが、日本においてはこれが適用されない。
日本では、犯罪者の家族も犯罪者と同等に扱われ、警察に拘留されて当の本人が謝罪できないことから、その家族に謝罪の意を表することを求める。
誰が、というわけでなく”世間”がそうさせる。
ここで適切なコメントがない、または何の謝罪もない場合、厳しく批判される。
謝罪コメントですら、批評される。家族は犯罪者ではないのに。

これは日本が島国故に構築されてきた社会システムに要因がある。

”日本”という独特の環境

どういった社会システムが、家族を巻き込むことになっているのか。

日本は島国独自の文化を発展させてきた。ざっくりと言うと、その多くは農耕民族として、特定の土地に住み続けることで食料を確保し、また近くに住む者たちと協力することで、餓死を防ぎ、協力しあうことで発展してきた。

こういったコミュニティ形成の中で一番困るのは、勝手なことをする者が出ることである。また、狭いコミュニティだからこそ、特異なものに向けられる目も厳しかった。
当初目的であった生きていくための協力に不可欠な、和を乱さないことが、いつの間にか目的にすり替わっていく。

当然、一番身近な家族が、自分の身内が和を乱さないかと目を光らせることになり、些細なことでも問題にならないよう、自分も頭を下げてでも周りと上手く共存していくことが手段として選択される。
こういった環境から、”村八分”や”一族郎党(これには家臣等も含む意味合いになるので、家族よりさらに広い範囲を指す。)”といった言葉が現代にも残っている。

しかし、こういった昔からある社会システムとは別に、日本は法治国家であることも忘れてはならない。

法的には親に責任が生じるのは13歳まで

日本が法治国家である以上、忘れてはならないのが、法律上はどうなっているのか、という観点である。
まず、責任が生じそうな範囲といえば、配偶者や子ども、親戚は当てはまらないことがほとんどである。発生するとすれば、親かと考える。
そして、20歳を超えた成人であれば、当然親に責任は生じないことは周知の事実であるが、あえてどこまでが責任の範囲なのか、確認してみる。
刑法第41条「14歳に満たない者の行為は、罰しない。」とあり、13歳までの者は責任能力がない、と扱われる。この場合、保護者にも責任が生じるとされている。

つまり、法律上は14歳以上であれば刑事責任を負うだけの能力があると判断される。

ただし、家庭環境によって罪を犯す未成年もいるとされるが、犯した罪の内容や状況、判例によって多少の考慮がある例もあるが、原則として本人が責任を負える年齢であることを前提に判断される。

日本の”世間”という存在

日本の社会システムをわかりやすく言うと、”世間”であるだろう。

先ほど挙げたように、法治国家である日本の法律には、親の責任は13歳までとある。
それでも、成人した犯罪者の家族(特に親)にも責任があるように思うのか。

これは”世間”という目に見えないシステムが、異端な者を排除するように設計されたままであるからで、狭いコミュニティで自分たちの利害が直結していた時代ではないにも関わらず、手段だけが残っているからだ。

更にタチが悪いのは、現代ではインターネットの普及により、自分と関係ない場所、人のものであっても情報が入ってくる。
今までは狭いコミュニティ内で、和を保つために行ってきたことが、終わりのない外に流れ出てしまったのだ。
知ってしまったら、どうなるのか。
直接被害にあっていない人間までもが、被害に遭ったような感覚を持つ。また、自分の周辺でも同様のことが起こらないかと不安になる。
”世間”は社会システムであるが、その社会を構成する人間も”世間”となる。
ここに”世間”というものを通した、第3の被害者が出てくるのだ。

だからこそ、育児でも親がノイローゼになるぐらい、子どもを微塵も他人に迷惑を掛けないよう、狭い枠の中にはめていく。叱り方も「〇〇(他人)が怒るから」や酷いときには理由ではなく、「うるさい」の一言。これをすると子どもは”怒られなければ良い”、”バレなければ良い”という思考に育つ。

この”世間”という存在が、現代において更なる問題を作っている要因でもあるのだ。

こういった犯罪者の家族の謝罪は、氷山の一角でしかない。
”世間”という目に見えないシステムにこれからも踊らされ続けるのか。

これからの”世間”のあり方

自分の周辺の情報しか入ってこなかった時代に比べ、今は知りたくもない情報が入ってくる。自分は被害に遭っていないのに、被害者の気持ちになって憤慨する。
芸能人が不倫をして憤慨し、覚せい剤を使用して憤慨、性犯罪、殺人、挙げればキリがない。
正義感、ともいえるこの感情を否定はしないが、こうも多くの情報が入ってくるのに、いちいち怒りを覚えて謝罪を要求するようでは、身がもたない。

むしろ、こういった些細な他人の情報に反応せず、自身に必要なものだけを受け取るようになれば、この情報化社会を有効に活用できるのだ。

たとえば、不倫であれば法的にどういった賠償請求がされるのかを知っておけば、リスクの大きさから自身が手を染めないよう戒めに、万一、配偶者に不倫された場合は、どういった請求が可能かを知識として得る、といった程度にしておく。

個々人がこういったスルースキルを身につけることで、”世間”そのもののシステムはいつしか変化すると考える。
国際化は時間をかけて進んでいるのだ。島国のローカルなシステムもいつか変わらざるを得ない。
”世間”というシステムが変化するには、その構成員である我々が変わっていくことが必要なのだと考える。

まとめ

親の責任は13歳まで。14歳以上は自己が責任を負う。
”世間”は社会システムであり、法以外のもの(犯罪者の家族の謝罪等)を要求してくるが、その根拠はない。
”世間”がそのシステム上、第3の被害者を作ってしまうが、構成員である我々が情報に対するスルースキルを身につけることで、そのシステムを変えることができる可能性がある。

本来、傷つかなくて良い他者が心を痛めたり、憤慨したり、ショックを受けたりする社会は、他者との同調ができる社会として貴重ではあるが、可能であるならば、他者との距離感を再確認して、不要な感情に振り回されないよう、コントロールしていくことが、現代では求められているのではないか、と考える。

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同志社大学卒業。
学生時代からラグビー強豪校・チームのスタッフとして7年従事。
地方公務員3年半務めた後、転々とし現在は税関係の職場に就職。
社会人になってから、バレーボールの風雲児的存在達と出会い、ツイッターでは#vobotterでしばらく底辺カテゴリの指導法について疑念を提唱。(現在アカウント変更)

主に、組織論やコーチングについてが専門。日本のコーチングが定義違いであることに言及。
中学バレー部のメンタルトレーナーの経験から、発達心理等についても学ぶ。(子ども成長に関することも学んだことから、子育てについても応用。)
現在は、猫飼いのため、ツイッターとアメブロは猫率99%。
たまに、まともなことを言う雑学がある子、だそうです。

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