恵みの業の種を蒔き、
  愛の実りを刈り入れよ。ホセア書10:12

 あなたがたに勧めます。
怠惰な者を戒め、
小心な者を励まし、
弱い者を助け、
すべての人に対して寛容でありなさい。

 だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、
お互いに、またすべての人に対して、
いつも善を行うよう努めなさい。Ⅰテサロニケ5:14~15

 申命記24:(10~13)17~22
 マルコ10:17~27
      (ローズンゲン日々の聖句8/24;水)

 天の神、主、「私はあるという者」と名乗られる方は、この世界を平均的平等にするのではなく、差があることを許しておられるようです。
そして、その差を、愛を行う場として用いるようにと願っておられ、常に、弱い立場にある人を心にとめておられる方のようです。

 それで、今からおよそ3500年ほど前にも、出エジプトしたイスラエルの民に、モーセを通して、
「在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。
やもめの着物を質に取ってはならない。
あなたが畑で穀物の借り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。
あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や「、みなしご、やもめのものとしなければならない。
ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。
あなたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。
だから、私はあなたにこのことをせよと命じる」(申命記24:17~22)と語っておられます。

 また、パウロを通して、
「困っている人に施しをするために、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい」(エペソ4:28)と勧められ、
「私はこのこと(エルサレムの貧しい人たちのための支援献金)によって、他の人々には楽をさせ、あなたがたに苦労をさせようとしているのではなく、平等を図っているのです。
今あなたがたの余裕が彼らの欠乏を補うなら、彼らの余裕もまた、あなたがたの欠乏を補うことになるからです。こうして、平等になるのです。
「多く集めた者も余るところがなく、少し集めた者も足りないところがなかった」(出エジプト16:16~18)と書いてあるとおりです」(Ⅱコリント8:13~15)と語られるのです。

 ある、金持ちで、社会的な地位もある青年が、「永遠のいのち」を自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいのでしょうかとイエスに尋ねながら、イエスが、「あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい」と言うと、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去ったのだそうです(マルコ10:17~27)。

 そのように、私自身の「生まれた時からの霊」から出てくる思いは、自分が困らないようにと、出し惜しみをする思いばかりです。

 けれども、「聖である霊」と呼ばれる方が心に置いてくださる「父である神」の御思いは、ご自身に対する、必ず養ってくださるとの信頼と困っている人を思う愛の思いなのでしょうね。


 「わたしはあるという者」と名乗られる方は、愛のない私とも、「恵みの業の種を蒔き、愛の実りの借り入れ」の喜びを共にしようと思っていてくださるのでしょうか。
今日も。



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愛媛県久万高原町の産。仏教大学(社会福祉)、JTJ宣教神学校卒。キリスト教プロテスタントの教会員。

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