どこにも
 主の目は注がれ、
    善人をも悪人をも見ておられる。箴言15:3

 天の国は次のようにたとえられる。
網が湖に投げ降ろされ、
いろいろな魚を集める。マタイ13:47

 マタイ7(13?):27~34
 マルコ8:34~9:1
      (ローズンゲン日々の聖句8/15;月)

 「天網恢恢疎にして漏らさず」(テンモウ カイカイ ソニシテ モラサズ)という言葉があるそうです。
天が悪人を捕えるために張りめぐらせた網の目は粗いが、悪いことを犯した人は一人も漏らさず取り逃さない。天道は厳正であり、悪いことをすれば必ず報いがあるという老子のことばだそうです(故事ことわざ辞典)。

 天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と名乗られる方は、私たちの良いことも、悪いことも全部見ておられる方、私たちは、将来、ひとりひとり、必ず、この方の前に出て、自分の生きて来た生きざまに対して申し開きをしなけれがならない時が来るのだそうです。

 マタイ13:24~34に記されている、天国のたとえの中で、イエスは、
「ある人が自分の畑に良い種の麦を蒔いておいたのに、人々が眠っている間に、彼の敵が来て、毒麦を蒔いて行ったので、よい麦と毒麦がいっしょに生えて来た。
それで、働く人たちが、すぐ、毒麦を抜いてしまいましょうかと言うと、
主人は、『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。
収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、
まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。
麦のほうは、集めてわたしの倉に収めなさい、と言いましょう』と言う」と話しています。

 使徒ペテロを通しては、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改め(方向転換して神に立ち返ること)に進むことを望んでおられるので、忍耐深く、さばきの日を先延ばしにしている」(Ⅱペテロ3:9)とおっしゃっておられます。

 けれども、必ず、マタイ13:47~50で話されているように、漁師が、網にかかった魚を、良いものは器に入れ、悪いものは捨てるように、この世の終わりには、御使いたちが来て、正しい者の中から悪い者をえり分け、火の燃える炉に投げ込み、彼らはそこで泣いて歯ぎしりするときが来るというのですね。

 マルコ8:34からでは、イエスは、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」とおっしゃっておられます。
 
イエスは、すべての人間の、すべてのそむきの罪の贖い代として屠られる小羊として、これから十字架刑で処刑になる、
そのために、イエスは自分が架かる十字架を負って処刑上まで行かれる、
そのイエスの十字架刑、イエスの十字架刑による処刑を私に代わって受けてくださった十字架刑での処刑、私自身の処刑としていただいて、私はイエスとともに十字架に架けられ、処刑されたもの、死んだ者、処罰は残っていない者として、神の審判を過ぎ越すようにしていただける、と、天の神、主、「わたしはあるという者だ」と言われる方は約束してくださっているのだそうです。

 それで、処刑上に向かうイエスが負っている十字架を私の十字架として、私の処刑は終わっている、「生まれたときからの霊」と呼ばれる私自身は処刑され、死んだ者として手続きが終わっている者としていただき(ロマ6:11)、十字架に架かられ、葬られ、三日目に新しい「霊のからだ」に復活し、天の「父である神」の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「新しい霊」、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えして(使徒1:3~5)、この方によって「父である神」が、私に思っていてくださる御思いを、自分の心に書き付けていただいて(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:25~28)、「父である神」が私に対して思っていてくださる御思いを我が思いとしてこれについて行く(ガラテヤ5:24~25)。
それが「自分の十字架を負い、イエスについて行く」生き方なのでしょうね。

 そして、この生き方を受け取る者を、イエスについていく者は「わたしのいる所にいるべきだ」(ヨハネ12:26)とおっしゃって下さり、イエスと、「わたしはあるという者」と名乗られる方と、一つになって歩んだ者として、イエスと同じ「神の子」の栄光で包んでくださるのだそうです。
 
今日も。


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佐知男 このユーザーの他の記事を見る

愛媛県久万高原町の産。仏教大学(社会福祉)、JTJ宣教神学校卒。キリスト教プロテスタントの教会員。

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