いかに幸いなことか、
  主を神とする国、
    主が嗣業として選ばれた民は。詩編33:12
        (7/31のの週の聖句)

 耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、
目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない。
あなたの神を畏れなさい。レビ記19:14

 宴会を催すときには、
むしろ、貧しい人、
体の不自由な人、
足の不自由な人、
目の見えない人を招きなさい。
 そうすれば、その人たちはお返しができないから、
あなたは幸いだ。ルカ14:13~14

      (ローズンゲン日々の聖句7/31;日)
 
 「なんと幸いなことでしょう」と言うのですね。

 天の神、主、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と名乗られる方(出エジプト3:14、ヨハネ8:24)を自分の神とする者、その方から「私のもの、私の民、わたしの子」と呼んでいただける契約を結んでいるものは(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:28)と。

 この、新しい契約は、イスラエル1500年の歴史において、
律法を自分で守るという生き方では、天の神、主、「わたしはあるという者だ」と名乗られる方と心を一つにすることはできないことがはっきりと実証されたうえで、
永遠の初めから「父」とともにおられ、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして。われわれに似せて」(創世記1:26)と、この天地創造、人間の創造を共にされた、「御子である神」と呼ばれる方が、
与えられた自由意思によって、そむいた人間の責任を取るために、
女の子孫(創世記3:15)として、この人の世に来られ(ヨハネ1:1~14)、
約束のことばのとおりに、すべての人間の身代わりとなり、十字架刑での処刑を受けられたこと(ヨハネ19:1~30)、

 そして、そのイエスが、約束のことばのとおりに、三日目に墓より、新しい霊のからだに復活し、40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国について教えられたのち、オリーブ山で、弟子たちの見ている前で、天の、「父である神」の右の座に帰られ、

 そこから、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を、受け入れる者に派遣してくださる、
その出来事において実効しているのだそうです。

 この、新しい契約において、この方、「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えした者は、この方によって「神の子」の身分を与えていただき(ヨハネ1:12、ロマ8:14~15)、

この方が、「父である神」が、ひとりひとりに思っておられる御思いを、ひとりひとりの心に書き付けてくださるので(エレミヤ31:33、エゼキエル36:27)、この部分において「父である神」と同じ思いを思い、一つ心になり、
この方がその人を通してしようと思っていらっしゃることをする者にしていただけるのだそうです(ヨハネ14:12)。

 受け入れる者は、「父である神」が思っておられるように、耳の聞こえぬ人、目の見えない人、貧しい人を大切に思い、

「祈り」を通して「父である神」の御思いに聞き、御思いの中に深く思いを潜め(ルカ19:41~48)、「父である神」の御思いを慕い、求める(詩篇119:33~40)者にもしていただけるのだそうです。この新しい週も。

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佐知男 このユーザーの他の記事を見る

愛媛県久万高原町の産。仏教大学(社会福祉)、JTJ宣教神学校卒。キリスト教プロテスタントの教会員。

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