マティスの最晩年の作品“かたつむり”

『№1マティスが絵画の世界に生きた理由』Henri Matisse

《色遣いの魔術師と呼ばれたマティスが育った優しい緑の世界》

軽快な線描き、鮮やかな色彩コントラストを特徴とするアンリ・マティスは、フランスの近代画家として、また、「色遣いの魔術師」として、あるいは“色彩の巨匠”と呼ばれその名を世界に馳せます。

★マティスはパリから車で約2時間の距離にある小さな村ル・カトー・カンブレジに1869年12月31日、生まれました。そこは小さな村でしたが、牧歌的な雰囲気に包まれた緑濃い村でした。そんな環境ゆえだからでしょう、村に住む人々の心根は優しく、そこには常に平穏な世界が広がっていました。また、緑濃い周辺ですから清新な風の中に在りました。

そして、何があっても誰一人としてお互いを愚痴ることもなく、手を取り合って生きました。それは彼らの性格の良さがもっとも大きな理由でしたが、実はもう一つ別な訳があったのです。

村は肥沃な地でなかったことで、農業で生計は立てられなかったことがそのもう一つの理由なのです。そうなのです。彼らは貧しさにじっと耐えるのではなく、皆で懸命に策を練った結果、当時需要の大きかった繊維産業に目を付け、それを収入源にしようと立ち上がります。もちろん、手に手を取って一丸となって貧しさに立ち向かったのです。

そして、日々働き、織物産業を盛りたててゆきました。結果、貧しい村はいつしか繊維織物の村として興隆し、周辺に名を知られるようになります。それは彼らが手を取りあって頑張った結果でした。そして、村人たちの勤勉さも同時に有名になり、多くの人たちの知るところとなったのです。その成功は彼らの目の付けどころが良いというだけではなく、村全体が家族のように慕い合い、お互いの幸せを願いながら暮らしていたという、そのことが経済的に飛躍させた大きな要因だったのです。

★そんな村に育ったマティスですから、彼も村の人たち同様に幼い頃から優しく静かな性格に育ちました。もちろん、村人たちと同じにとても勤勉家でしたから、青年時代は法律家を目指して日々勉学に勤しみました。でも、そんな中、1890年、21歳のとき虫垂炎にかかり病床につきます。

当時ですから、手術を終えれば数日後には退院とはゆかず、長い入院生活を強いられたマティスは、読書に明け暮れながら同時に、自分を改めて見つめる時間を得るのです。そして、それまで法律家として生きることに疑問すら持っていなかったのですが、見つめ直したその時、以前から興味を持っていた絵画の世界に惹かれる自分の姿を垣間見ることになったのです。

《青年時代は法律家を目指して学んだマティス。夢を叶えるための画家への転身》

自分でも予想外でした。でも、絵画への夢が日に日に大きく育っていったマティスは、退院後、画家として生きることを決心し、間もなくして当時エコール・デ・ボザール(官立美術学校)の教授であり、フォーヴィスムの画家達の指導者であったギュスターヴ・モローを訪ねます。その後、モローの元で本格的な絵画の手ほどきを受けることになったマティスは、憧れのモローに全幅の信頼を置いて日々を送るのですが…。

それまで遠くでしか見ることのなかった憧れの師の世界を目の前にして日々を過ごす内、脳裏に思い浮かんだ想像と幽玄の世界を描く師モローの世界と、写実的な作風を得意とする自分とは画家として根本的に異なることに気がつきます。悲しい気づきでしたから、そのギャップを埋めようともがきましたが、百歩譲ったとしても納得がゆかなくなり、次第にファン・ゴッホやポール・ゴーギャンなど印象派たちの作品に目を奪われようになってゆきます。自由な色彩の中で遊ぶ彼らの作品に魅了されながらも、ここでも納得がゆかず苦しみます。

なぜなのか自問自答し続けるその内、自分の写実的な描き方に疑問を問いかけるようになってゆきました。何かが違う…。

そう思う中、勤勉家の彼は立ち止まらずに一番もどかしく思っていた色彩の世界を見直し、模索し始めます。同時に自分らしさを表現できる画法も追究するようになるのですが、追求を始めるその都度、自然をこよなく愛して故郷で過ごした幼い頃の自分を思い浮かべていることに気がつきます。

そうなのです。あの汚れない清新な風の中に広がる故郷カトー・カンブレジを思い、草原に咲く野の花の赤や黄色、紫色などの色に遊びながら、緑あふれる世界を脳裏に描いている自分がそこにあったのです。そして、それこそが色が遊び戯れる自分らしい絵の世界であることを確信するのです。

その後、マティスは試行錯誤を繰り返しながら、独自の世界を少しずつ創り上げてゆきました。後にマティスが「色彩の魔術師」と謳われ、自然をこよなく愛し続けた画家と称されますが、その基盤を造ったのが師の元を離れ、こうしたプロセスを踏んで自分の世界を見つけた25歳の頃だったのです。

アンリ・マティスにとって25歳までが“自分を見つける旅”だったと思います。ここまでが自分の納得ゆく世界を見つけるための“歩み”だった。そう思います。

温和で優しい性格だった彼でしたが、悩み苦しみながら決してあきらめなかった自分探しの旅の中で、自分の進むべき道を見つけ、指針を立てたのです。

『№2マティスが絵画の世界に生きた理由』Henri Matisse

《25歳で“自分を見つける旅”を終了したマティス。その後も精進し30歳で画家として画壇にその名を刻みます》

アンリ・マティス(Henri Matisse, 1869年12月31日~1954年11月3日)が「色彩の魔術師」と謳われ、自然をこよなく愛し続けた画家と称される、その基盤を造ったのが師の元を離れ、様々なプロセスを踏んで自分の世界を構築するようになった25歳の頃です。

そして、25歳で“自分を見つける旅”を終了した彼のその後も精進が続き、画家として画壇にその名を知られるようになるのが30歳半ば。

その頃に完成した「緑のすじのあるマティス夫人の肖像(1905年)」「ダンスI(1909年)」などはそれまでにない彼の自由さを表現し、大胆な色彩を特徴とした作品でした。でも、まだその頃は色彩の魔術師と謳われるまでには到達していませんでした。

とはいうものの、線の単純化、色彩の純化というそれまでにない手法での斬新さが評価され、また、“原色を多用した強烈な色彩と激しいタッチ”を特徴としていたことで、「まるで野獣の檻(フォーヴ)の中にいるようだ」と評論されたことをきっかけにその後、野獣派(フォーヴィスム)のリーダ-的存在として名が知れるようになります。

でも、物静かで優しい彼としては、そう呼ばれることは本意ではなかった。ですから、野獣派フォーヴィズムの旗手としては1905年から3年ほどの間だけの活動で終わります。

《ちなみにマティスが最初に師と仰いだ象徴主義の画家で、当時エコール・デボザール(官立美術学校)の教授をしていたギュスターヴ・モローフォーヴィスムの画家達の指導者でした》

★それ以降、マティスは友人に“私は人々を癒す肘掛け椅子のような絵を描きたい”と言いつつ、比較的静かで心地の良い作品を描くように変わってゆきます。

ちなみに「ダンス」は1930年、ペンシルバニアのバーンズ財団の依頼で制作されたものですが、極めて高い評価を得た作品であり、その踊る姿の表現は衝撃的なものであるとして、今なお取りざたされる秀作の一つになっています。

その後、故郷への思いが大きな憧れとなり、緑が大好きなマティスでしたから部屋にいっぱいの草花を飾り、数百羽を数える鳥たちを住まわせます。まるでお花畑と樹木の茂る森のようなそんなアトリエを作り、そこで数々の傑作を生み出してゆくのです。

“アトリエを緑いっぱいにしたことは、彼にとって故郷回帰という夢を現実化したものであった。また、逆にそうありたかったから、自然を摸したアトリエを造り、そこに自分の世界を構築した”

《静穏で美しい風に包まれた故郷に回帰することが画家マティスとして生きる道でした》

静穏で美しい風に包まれた故郷に回帰することが、画家マティスとして生きる道であったのです。でも、彼は1951年、不運にも十二指腸癌を宣告されます。そして、次第に、手足の自由が効かなってゆきました。それでもなお線の単純化、色彩の純化を追求し続け、不自由な身でありながら南仏ヴァンスのドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の内装デザインなどを切り紙絵として制作しました。「色彩の魔術師」と言われるようになって久しいその頃でした。執念にも似た思いで完成させたと記録されています。

マティスにとってハサミは鉛筆以上に素画に適した道具だったのです。ですから、それ以後も苦痛に耐えて「ジャズ」シリーズなど切り絵の作品を多数残し、癌宣告から3年後の1954年11月3日、85年の生涯を終えるのです。

★画像の作品はベルギー・ブリュッセル王立美術館所蔵の彼の最晩年とも言える1953年に完成した切り絵「かたつむり」L'Escargotです。作品はベッドに伏したままでの制作でした。アシスタントを使って画布に完成させたこの作品は、マティスの遺作です。

《追記:マティスの“ダンス”》

マティスにとって「ダンス」(1930年)は、色彩のシンプルさを見つめたかった試作品だったかもしれません。最期に切り絵作品を作るための試作品だった。私にはそう思えるのです。それと、あのシニャックと同じようにフランスのリヴィエラ海岸地方(南仏)のニースとヴァンスに住み始めてから、色彩への賛美は始まっていたのだと思います

なぜなら、そこに彼の色遣いの原点があるように思えるからです。ですから、彼は隠されていたシニャックの作品を見つけることが出来たのだと思います。

そして、マティスは楽しい色遣いの中で、生きる悲哀を描き続けたのだとも思っています。ですから、彼の作品の前に立つと、いつも大きな感動に包まれます。

人生の悲哀を描く作家は、数少なく、でも、私が知る限り、いいえ、私の中ではこのマティスと彫刻家のマリーノ・マリーニしかいないのです。ですからこの二人は、私にとって気になって仕方のない、でも、大好きな作家となっています。

余談ですが、1952年、その生涯を終える2年前、故郷の村にアンリ・マティスは自分の美術館を開きました。そのとき、彼は美術館をなぜ開くのかこう言ったのです。

“この世のみずみずしい美しさの一部を明らかにすることのために…”

この言葉は彼の生きた人生そのものを言い表している。絵画の世界に生きた彼の理由そのものだった。そう思っています。

《明日はシニャックとの出会い『ピカソのフォーヴィズムに影響を与えた画家シニャック』を解説予定です》

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手したその他の資料、ウィキペディアなど参考にさせて頂いています》

(旅行ジャーナリスト・作家 市川昭子著)

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★旅行ジャーナリストとして長い間、公私共に海外の国々を訪れ取材し滞在。美術館巡りが好きで「ヨーロッパの美術館」など著書も出版。海外ガイドブック30冊以上(フランス、イタリア、イギリス、ベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、ハワイ、アメリカ、香港、韓国、グアム、サイパンなどなど十数カ国のガイドブック)を取材し出版。★小説【あなたが生きた街】を出版。

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