姦淫してはならない。出エジプト記20:14

 結婚は尊ばれるべきです。ヘブル書13:4

      (ローズンゲン日々の聖句7/15;金)

 結婚。
自由意思において、自発的に、愛と尊敬において一つになるという契約。
ひとりの男と一人の女が。

 また、それは、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方と受け入れる者が一つになるという新しい契約のかたち。

他の者に心を寄せることはこの「一つ」を壊すことでもあるのですね。

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)とおっしゃられて人間を、そして、人間の住まいとしてこの宇宙、地球の自然環境を創造したとおっしゃられます。

 「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」(創世記2:24)とも。

 一人の男と一人の女が結婚を通して一体となる、
それが天の神、主がおっしゃる「われわれのかたち」をもっとも端的に表すものということでしょうか。
夫婦が一体となることが天の神、主の、自由意思による、自発的な、愛と尊敬による一体のひな型、モデルであるということのようです。

 とすれば、姦淫、夫婦のどちらかが他の女に、あるいは他の男に心を寄せることは、天の神、主の、自由意思による、自発的な、愛と尊敬による「一つ」という「かたち」を壊すことになり、人間の存在意義を失わせることになるようです。

 それで、天の神、主は、「この方を私たちの神とし、この方の仰せられたことはみな行い、聞き従います」(出エジプト24:7)と答えて、イスラエルを神の民とし、この方を私たちの神とするという契約を結びながら、他の神々に心を寄せるイスラエルの民を「姦淫をする者」と嘆かれたのですね。

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、モーセに命じて、ご自身と民とが親しく交わる場所として「会見の幕屋」を立てさせ、ご自身と民とを執り成すものとして祭司職を立てられました(創世記40:1~17)。

 イエスは、ご自身が十字架刑での処刑を受けられる前夜、弟子たちに、パンをご自分のからだにたとえ、ぶどう酒をご自分の血にたとえて、食べたパン、飲んだぶどう酒が食べ、飲んだ者と一体となっているように、ご自分がこれから受ける十字架刑での処刑が、「聖である霊」と呼ばれる方が受け入れる者に来られる道を開き、「聖である霊」と呼ばれる方を受け入れる者には、この方が「父である神」の一人一人に持っておられる御思いを、その心に書き付けてくださるので、受け入れる者は、自由意思により、自発的に、愛と尊敬をもって、イエスがおっしゃる「わたしたち」(ヨハネ17:21)と一つになるという新しい契約(エレミヤ31:31~33、エゼキエル36:25~28)が発効することを示されたのですね(ルカ22:14~20、ヨハネ17:21~22)。

 イエスの十字架刑での処刑が完了し、「聖である霊」と呼ばれる方が来てくださる道が開かれている今は、この方をお迎えし、イエスがおっしゃる「わたしたち」と思いを一つにし、心を一つにしていこうと、天の神、主は、私たちに提案してくださっているのだそうです。

 一人の男が一人の女に結婚によって心を一つにし、身体を一つにし、生活を一つにしようと申し込むように。
今日も。

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佐知男 このユーザーの他の記事を見る

愛媛県久万高原町の産。仏教大学(社会福祉)、JTJ宣教神学校卒。キリスト教プロテスタントの教会員。

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