画像は友人・医師の宮崎青爾氏の作品です

『白洲次郎・正子夫妻とその友人たち』第10章“元首相細川護熙氏と白洲夫妻との関係”

《軽井沢では白洲次郎は近くの別荘に来る元総理大臣・細川護熙氏と遊び仲間》

元総理大臣・細川護熙氏の父・細川護貞氏の軽井沢の別荘は,今は縮小されていますが、かつては大きな西洋館で敷地は4万5千坪という広大なものだったようです。当時はまだ軽井沢が別荘地として拓かれはじめた黎明期でしたが、その西洋館の豪奢さは半端でなく、門から玄関まで150メートルほどの並木道が続いていたというのも近隣に住む人々の注目を集めていました。そして、そこで子供の頃休暇を過ごした護熙氏は、近くの別荘にやってくる白洲次郎と遊び仲間になります。

彼は兄貴分だった次郎氏との思い出を、今なお鮮明に覚えており、次郎との想い出を「波」2004年10月号の『次郎さんの思い出』の中で下記のように語っています。

「私とはもちろん親子ほど年が違ったわけだが、たまたま将棋の腕前は同じくらいで、軽井沢で夏などよく『おい、ひろちょっとこい』と言われて白洲邸まで将棋を指しにでかけたものである。次郎さんは大変な負けず嫌いだったから、負けそうになると『おい、ちょっと待て』『お前、ほんとにそれでいいのか、いいのか』と威嚇して相手の手を変えさせるのが得意だった。私はその手に乗らなかったが、私の祖父に仕えていた家令で、アダ名を田村将軍という軍人上がりの大男がいて、その将軍は図体に似合わずよく次郎流の脅しに屈して逆転負けを喫し、それをまた次郎さんは殊のほか楽しんでおられた」(「波」2004年10月号『次郎さんの思い出』の中より抜粋)

また、細川護熙氏の首相在任中、彼は次郎氏の孫にあたる白洲信哉氏を公設秘書にしていますが、これもこの頃から続く親しい縁であると思われます。

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《正子は歌人・柳原白蓮と姻戚関係にあったことで皇后・美智子さまの婚約時の騒動にも関係》

白洲正子は次郎と結婚後、青山二郎や小林秀雄の影響を大きく受け骨董の世界に魅入られてゆきますが、骨董という世界だけに止まらず、そこから派生する“伝統的な日本の美”について学び始めます。そして、その後、日本の文化芸能に持論を持つ多くの著名人たちと語り合う機会を得たこともあり、日本の美についての随筆を多く著してゆきました。

それは古美術の手ほどきを受けた細川護貞はもちろん、青山二郎小林秀雄梅原龍三郎など多彩な交友関係を持ったことで、正子の英知がより豊かに育ち、日本の美に対しての審美眼が研ぎ澄まされていったと思います。晩年には護立の孫で元首相の細川護熙河合隼雄多田富雄たちとの交友もあり、また名人といわれた能楽師・友枝喜久夫の仕舞の会を自宅で開いたりと、日本古来の芸能にもその才能を見せつけたりしました。

また、晩年の活動から正子は古典美に興味を持つ女性たちを中心にしてカリスマ的存在となり、また、多くの著作が刊行されますが彼女の没後もその人気は衰えず、今なお著作が再編本・新版で出版され続けているのです。正子の多彩なる才能は夫次郎にも負けず、また、多様な交友関係も次郎氏に勝るものがあったと思います。

その多彩さに正比例するかのように、交友範囲も広くなってゆきますが、何と2014年(平成26年度)上半期に放送されたNHKの朝ドラ『花子とアン』で、仲間由紀恵演じた歌人・柳原白蓮(1885~1967年)とも姻戚関係にあり、友人としても親しく交流していました。

その関係で、白蓮と皇后・美智子さまとの間には、ただならぬ関係があったことで、直接的ではありませんが、皇后・美智子さまの婚約時の騒動に関連した逸話が残されているのです。

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《歌人・白蓮と友人であった正子と皇后美智子さまとの関連》

1958年(昭和33年)11月27日、美智子さまは皇室会議により正式に皇太子妃に内定し、民間初のプリンセス誕生に国民は歓喜しますが、皇室内部とその周辺では美智子さまが民間出身ということに異を唱え、猛烈な反対運動が起こります。その後ご婚約が正式決定しますが、それを機にして女子学習院のOG会で、明治以来続く常磐会による反対が始まったのです。

常磐会は皇族妃、元皇族を中心にした組織で、皇室内では絶大な力を持っていましたから、それは大変な事態になってゆくだろうと、関係者は憶測していました。当時、常磐会の会長は松平信子さまでした(享年82/正子の無二の友・秩父宮妃勢津子さまの母堂)。

《余談:旧会津藩主の松平家で生まれた秩父宮勢津子さまは、後に秩父宮雍仁親の妃となりますが、正子とは学習院女子部初等科3年で同級となって以来、生涯の友となり最後まで親しく交流を持ちました》

また信子さまは皇室に大きな力を持っていましたが、彼女の意見を無視された形で美智子さまが妃殿下に決まったことを受けて、今度は意見だけではなく“婚約解消”へと動き始めたのです。

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《信子さまの反対意見に同調し、婚約解消運動の参謀となったのが白蓮でした》

白蓮は姻戚関係にあった白洲正子にも美智子さまのお妃候補の反対運動に加わるようにと連絡を入れます。というのも正子は華族出身ですから、皇室とは縁がありましたし、政財界に知人の多い白洲次郎が夫です。白蓮は正子のその影響力を見込んで、彼女の参加を強いてきたのです。正子は自伝の中で白蓮との電話でのやり取りを下記のように綴っています。

“ある夜、白蓮から勢こんで電話がかかってきた。

「あなた、今度のことどう思う?」

「今度のことってナァーニ?」

「美智子さんですよ。あんた、このままほっとくつもり?」

《註:白蓮(柳原白蓮/柳原燁子・1885年~1967年=明治18-昭和42)の父は柳原前光伯爵。前光の妹は柳原愛子で大正天皇の生母。ですから白蓮は大正天皇のイトコ、という名門の子供として生まれます。その後、奔放な性格の白蓮は北小路資武子爵→炭鉱王伊藤伝右衛門→大学生宮崎龍介と2度の離婚と三度の結婚を繰り返します。誓い将来歌人白蓮の生涯の解説を予定しています》

★なお白洲正子の母・常子は川村純義の長女として生まれますが、常子は歌人・佐々木信綱門下で、九条武子や柳原白蓮とも親しく、また、常子の妹・花子は柳原義光(白蓮の兄)の後妻に入ったことから、白蓮と白洲正子は血はつながっていませんが、義理の姉妹関係となりました。

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手したその他の資料、ウィキペディアなど参考にさせて頂いています》

(旅行ジャーナリスト・作家 市川昭子著)

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★旅行ジャーナリストとして長い間、公私共に海外の国々を訪れ取材し滞在。美術館巡りが好きで「ヨーロッパの美術館」など著書も出版。海外ガイドブック30冊以上(フランス、イタリア、イギリス、ベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、ハワイ、アメリカ、香港、韓国、グアム、サイパンなどなど十数カ国のガイドブック)を取材し出版。★小説【あなたが生きた街】を出版。

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