『白洲次郎・正子夫妻とその友人たち』■第9章■“白洲次郎の妻正子の華麗なる一族”

《伯爵という貴族で政治家でもあった正子の祖父と父》

白洲正子(しらすまさこ・1910年(明治43年)1月7日~1998年(平成10年)12月26日)は、1910年1月7日、東京府東京市麹町区(現:東京都千代田区)に父・樺山愛輔と母・常子の次女として生まれます。

後に夫となる白洲次郎の育った商人の世界とは異なり、祖父樺山資紀は伯爵であり、警視総監の任務を終えた後には、海軍大臣、海軍軍令部長、台湾総督、枢密顧問官、内務大臣、文部大臣などを歴任するという貴族出身の軍人であり、華やかな歴史を刻んだ政治家でもありました。

また、母方の祖父に川村純義がいますが、彼もまた伯爵であり、明治政府の参議兼海軍卿、海軍大将を経て、枢密顧問官と政治に関わった方でした。

正子の父樺山愛輔(かばやまあいすけ)もまた、従一位大勲位功二級伯爵・樺山資紀の長男として生まれ、貴族としての教育の一端として、13歳で渡米しています。アメリカの大学卒業後、ドイツのボン大学に学び、英才教育を受けます。帰国後は稀に見る国際文化人として多くの企業や団体で活躍する、という華麗なる一族でした。

《正子の母樺山常子も伯爵家の生まれ。父は昭和天皇と秩父宮の養育掛りを務めた川村純義》

正子の母親の樺山常子も夫の樺山愛輔同様に、先に紹介した海軍大将、海軍卿として君臨した伯爵川村純義の長女として生まれていますが、純義は海軍を辞した後、皇孫(昭和天皇と秩父宮)の養育掛りを務めたという経歴を持しています。このように両親が名門の家柄でしたから、正子は幼い頃から充分な教育を受け、また、両家の子女としての躾を身に付けていました。

そして、留学したことで海外での生活が豊富な父親は、女子とはいえ国際感覚を身に付けてほしいという思いで、1924年(大正13年)、14歳になった花子が学習院女子部初等科を修了したのを機に渡米させ、ハートリッジ・スクールに入学させます。この留学は花子の願いでもあったようです。また、渡米する前でしたが、4歳から習い始めた能は、幼少期より梅若流の能の舞台にあがるという豊な経験もあり、同年、女性として初めて能楽堂の舞台へあがり、注目を集めています。

それらのすべてが父親から施された英才教育でしたが、その教育は大きく功を奏し、正子の本来持っていた才能を大きく引きだすことに成功し、次郎と結婚した後も、正子は自分を見失うことなく、独自の世界を構築してゆきました。

《父親の願い出英才教育を受けた正子。留学から帰国後白洲次郎と出会い結婚》

アメリカから帰国し、現在も東京都渋谷区広尾にあるカトリック系のインターナショナル・スクールの学校法人聖心女子学院によって設置されている聖心語学校(現・聖心インターナショナルスクール)に入学しますが、中退します。

その頃の白洲次郎は1928年(昭和3年)に9年間過ごした英国からの帰国し、翌年の1929年、英字新聞の「ジャパン・アドバタイザー」に記者として働いていました。そんな中、伯爵・樺山愛輔の長男・丑二の紹介の茶席で彼の妹正子と出会います。当時、次郎は26歳、正子は17歳。お互いに一目惚れでした。

日本人離れした彫りの深い端正なマスクに175cmという高い身長、そして英国仕込みの凛々しく気品ある物腰の白洲次郎です。正子が一目惚れするのも無理はなく、次郎もまた、自分の意見を持ち、海外生活経験のある正子の物怖じしない姿に見惚れたと伝えられます。そして、翌年、次郎は正子の父・樺山愛輔に結婚を承諾してもらうために会い、「お嬢さんを頂きます」と言ったのです。また、正子も「白洲さんと一緒になれなかったら家出します」と言い放ったそうです。

《披露宴の後、次郎の父から贈られたランチア・ラムダで新婚旅行に》

1929(昭和4)年、次郎が27歳・正子19歳の11月、二人は京都ホテルで結婚式を挙げます。その折り、次郎の父・文平から結婚祝いに贈られたのが、何とランチア・ラムダでした。

ちなみにランチア・ラムダはイタリアの自動車メーカー、ランチアが1922年から1931年まで製造していた乗用車で、先駆的な技術はその後の自動車工学に影響を与えたという名車で知られます。もちろん、二人はラムダを駆って新婚旅行に出ますが、最初の逗留先は箱根の富士屋ホテルだったようです。

その後、記者を辞めた次郎は、セール・フレイザー商会に転職した後、結婚8年目の1937年(昭和12年)日本食糧工業(後の日本水産)の取締役となりますが、海外に出向くことが多くなり、なかでも留学時代を過ごした英国への渡航が多かったようでその頃から、ロンドンで駐英国特命全権大使であった吉田茂との親交を深めるようになります。こうして次郎は次第に政界へのパイプを持つようになってゆきます。

《結婚14年目、町田鶴川の武相荘へ転居。正子は細川護立に古美術の手ほどきを受ける》

世界が徐々にきな臭くなった1942年(昭和17年)、次郎は東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(現・東京都町田市能ヶ谷)の古農家を購入します。そして、1943年(昭和18年)、まだ大戦前でしたが、きな臭さを感じていた次郎は、正子共々、鶴川村へ転居し、早々と疎開生活を始めます。まだ平和でした。二人は平穏な生活をエンジョイし、正子はこの頃からかつて能の世界から学び、また、興味を抱いていた古美術に夢中になり、その手ほどきを細川護立からに受けるようになります。

そして、細川護立に古美術の手ほどきを受けるようになってから以来、骨董を愛するようになりますが、その関連から、今度は青山二郎小林秀雄の影響を受ける機会が増えてゆき、彼ら二人から多くのことを学び、感化されてゆきます。その結果、古美術と骨董への造詣が深くなり、その後、日本の美についての随筆を多く著すことになってゆくのです。

ロンドン・バッキンガム宮殿前

《元首相・細川護熙の父・細川護貞との縁》

昭和19年12月3日、元首相細川護熙(もりひろ)氏を息子に持つ細川護貞が、鶴川の武相荘を訪れました。細川家と白洲家は軽井沢の別荘が近接していたこともあって、付き合いは長く、でも、近所付き合いの延長といった軽いものではなく、より深いものがありました。

当時、細川護貞美術コレクターとしてその名を馳せており、白樺派の支援者としても有名でしたから、それを知っていた正子は、骨董に興味を持った時点で、次郎を介して細川護貞に古美術について教えを請うていたのです。そして、鶴川の二人の居を訪ねることとなり、正子に古美術の世界を教授してゆくのです。

細川護貞は「武相荘」を数回訪れた時点で、周辺の自然豊かな環境を気に入り、次郎の影響もあったのでしょう、戦後になって彼も鶴川に農家を買って週末を過ごすようになります。

《余談:細川家とのつながりは明日に続きますが、軽井沢の細川家の別荘は大きな西洋館で敷地は三万坪もあり、門から玄関までフランスの農村風景のような並木道が続いていたという豪奢な別荘だったようです。そして、そこで子供の頃休暇を過ごした元総理大臣の細川護熙氏は、隣の別荘にやってくる白洲次郎と遊び仲間となります。そして、彼は兄貴分だった次郎氏との思い出を、今なお鮮明に覚えているのです。

明日は二人の軽井沢での想い出についても語りたいと思いますが、余談になりますが、私の軽井沢の友人は、白洲家や細川家などの別荘の隣人で、当時10歳だった彼女はテニスの帰りによく次郎氏のポルシェに乗って家まで送ってもらったそうです。その頃の逸話もいつか綴りたいと思っています》

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手したその他の資料、ウィキペディアなど参考にさせて頂いています》

(旅行ジャーナリスト・作家 市川昭子著)

★画像・記事の転載・転用、ダウンロードはお断りいたします。どうぞよろしくお願い致します。

この記事を書いたユーザー

市川昭子 このユーザーの他の記事を見る

★旅行ジャーナリストとして長い間、公私共に海外の国々を訪れ取材し滞在。美術館巡りが好きで「ヨーロッパの美術館」など著書も出版。海外ガイドブック30冊以上(フランス、イタリア、イギリス、ベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、ハワイ、アメリカ、香港、韓国、グアム、サイパンなどなど十数カ国のガイドブック)を取材し出版。★小説【あなたが生きた街】を出版。

得意ジャンル
  • 海外旅行
  • 国内旅行
  • カルチャー
  • コラム

権利侵害申告はこちら

Spotlightのライターなら1記事最大3000円もらえる!日本最大級メディアでライターデビューのチャンス