医師宮崎青爾さんの作品"雅・紫陽花”

『白洲次郎・正子夫妻とその友人たち』■第7章■“吉田茂の三女と結婚した麻生太郎氏の父麻生太賀吉とその家族”

《政財界で活躍する麻生太賀吉の子供たち。祖母雪子はあの大久保利通の孫》

麻生太賀吉は4人の子供に恵まれますが、その一人が現在の安部内閣で副総理、財務大臣、内閣府特命担当大臣の役目を担っている麻生太郎氏であり、三女の信子さまは故寬仁親王の妃殿下です》

★1951年(昭和26年)9月、吉田茂首相や白洲次郎と共に講和条約のためにサンフランシスコに随行した元内閣総理大臣・麻生太郎氏の父親麻生太賀吉(あそうたかきち、1911年9月29日~1980年12月2日)は、祖母雪子はあの大久保利通の孫という家系から誕生した日本の実業家、政治家であり、麻生セメント会長(現会長は麻生太賀吉の三男麻生泰氏が務めます)で知られます。

1931年(昭和6年)に祖父の経営する麻生商店に入社してから3年後、1934年(昭和9年)に社長となり、関連会社である麻生鉱業社長と麻生セメント社長を兼務し、莫大な利益を得ます。

戦時中、ロンドンに滞在中、白洲次郎の紹介で、当時駐英大使をしていた吉田茂の三女・和子と知り合い、帰国後結婚します。そして、戦後の1951年(昭和26年)には、九州財界の重要な位置付けにあった九州電力会長に就任しますが、首相となった義父吉田茂を補佐するため、1949年(昭和24年)第24回衆議院議員総選挙に郷里の福岡県から立候補し、当選。3期衆議院議員を務めます。その間、田中角栄と共に田中、麻生、根本龍太郎の三人組で池田勇人大蔵大臣を誕生させ活躍します。その後、吉田内閣総辞職と共に政界を引退し、実業界に戻ります。

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《吉田茂氏を祖父に持ち、富豪の父を持った良家の御曹司の華麗なる履歴》

妻和子(本名千賀子。鈴木善幸元首相の娘)との間には、長男・太郎、次男・次郎、三男・泰(実業家・アソウ・ヒューマニーセンター代表兼麻生セメント社長)、三女・信子(後に寬仁親王妃)と4人の子供に恵まれますが、次男の次郎は1964年、学習院大学ヨット部で活動中に事故死。22歳という若さで生涯を終えています。

そして、長男太郎は元内閣総理大臣であり、現在の安部内閣で財務大臣、内閣府特命担当大臣などの役目を担っている麻生太郎氏です。

麻生太郎氏(1940年/昭和15年/9月20日~)は、吉田茂氏を祖父に持ち、富豪の父を持った良家の御曹司で、彼も周辺の縁者同様に、学習院大学政経学部にて政治学士を取得後は、スタンフォード大学、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに留学するなど、海外生活を長く体験しています。海外の国に縁を持ち、造詣が深いのは家系ゆえのものかもしれません。

また、麻生太郎氏の妹であり皇族の寬仁親王妃信子さまも、聖心女子学院初等科、中等科を経て、英国の花嫁学校ロスリンハウス・カレッジへ入学しています。卒業後は彼女自身も通っていた松濤幼稚園に英語講師として勤めますが美しい信子さまでしたから、1972年(昭和47年)2月、16歳の時に寬仁親王(当時26歳)から求婚されます。

でも、当時はまだ高校生で若すぎるということもあり、8年後の1980年(昭和55年)4月18日の皇室会議を経て婚約。同年の11月7日にご成婚します。

医師宮崎青爾さんの作品"雅・紫陽花”

《1985年11月28日白洲次郎逝く…》

1952(昭和27)年、次郎は50歳を迎えます。また、妻の正子は42歳。同年の11月19日、白洲次郎は外務省顧問に就任し、サンフランシスコ講和条約調印後、吉田首相の特使として再び渡米します。そして、1952年(昭和27年)11月19日から1954年(昭和29年)12月9日まで外務省顧問を務めた次郎に、吉田退陣後は政界入りを望む声もありましたが、政治の世界が好きでここまで関わったのではなく、盟友である吉田茂の助けになるのならという、ことで政治の舞台に立った次郎でしたから、吉田茂の退陣と共に政治の世界に縁を切り、実業界に戻りました。

その後、様々な企業の顧問や会長を務めた次郎は、1959(昭和34)年、57歳の時に東北電力会長を退任し、以後、荒川水力発電会長、大沢商会会長等を歴任しながら、政財界の第一線からは身を退いてゆきます。

その後、1976年、次郎は軽井沢ゴルフ倶楽部常務理事に就任した後は、自分の死期が近いことを本能的に知ったのでしょうか、次郎が83歳、正子が75歳を迎えた1985(昭和60)年の秋10月、それまでふたりで旅することのなかった夫妻が軽井沢に出かけ、翌月の11月16日より伊賀・京都を旅行します。

旅行から帰宅して2日後の26日の夕刻、次郎が身体に変調をきたして入院。胃潰瘍と内臓疾患と診断され、治療が施されますが、同年11月28日83歳の生涯を終えます。

墓所は兵庫県三田市の心月院に設けられていますが、妻の正子と子息に残した遺言書には、次郎の父親が死去した際に残した遺言の内容とまったく同じで「葬式無用 戒名不用」と記してありました。

ですから、白洲次郎の墓碑には正子が発案した不動明王を表す梵字が刻まれているだけで、戒名は刻まれていません。

★誰にも真似のできないドラマチックな生き方を見せ続けた白洲次郎でしたが、晩年になってもその豪快さはあまり変わることなく、80歳まで1968年型ポルシェ911Sに乗り、好きなゴルフに興じ、また、三宅一生のショーにモデルとして出演したりして、日常を過ごしました。偉大でした…。

《日本を代表するデザイナー三宅一生に向かって次郎はこう言い放ちました。

“ツイードなんて、買って直ぐ着るものじゃないよ。3年くらい軒下に干したり雨ざらしにして、くたびれた頃着るんだよ”

それは世界にその名を馳せていたデザイナー三宅氏に対してのアドバイスだったのです》

《後日、白洲正子の解説を予定しています》

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手したその他の資料、ウィキペディアなど参考にさせて頂いています》

(旅行ジャーナリスト・作家 市川昭子著)

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★旅行ジャーナリストとして長い間、公私共に海外の国々を訪れ取材し滞在。美術館巡りが好きで「ヨーロッパの美術館」など著書も出版。海外ガイドブック30冊以上(フランス、イタリア、イギリス、ベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、ハワイ、アメリカ、香港、韓国、グアム、サイパンなどなど十数カ国のガイドブック)を取材し出版。★小説【あなたが生きた街】を出版。

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