ディケンズやビートルズなど著名人が愛したロンドンのメリルボーン

『白洲次郎・正子夫妻とその友人たち』■第5章■“戦後白洲次郎が関わった新憲法の最終草案”

《1945年終戦を迎えた日本は白洲次郎などにより新憲法総司令部案GHQ草案の検討に入る》


終戦を迎えた1945(昭和20)年、白洲次郎が44歳、妻・正子が36歳になり、結婚生活も16年目を迎えていました。兵役を逃れ先を案じて疎開した東京郊外の鶴川(現町田市鶴川)での生活は、戦禍も受けずに平穏な時間が流れていましたが、終戦を迎えた12月、吉田茂外相の要請で次郎が終戦連絡中央事務局参与に就任。そのために白洲家の周辺は騒がしくなります。なかでも終戦の翌年1946(昭和21)年2月13日、GHQが新憲法総司令部案GHQ草案(=マッカーサー草案)を日本側に渡されると同時に、次郎の手許に草案が届き、そのときから休む暇のないほど多忙を極めめてゆきます。

《日本に急進的な改革を要求するGHQ側の憲法草案に次郎は怒り心頭》

上京した次郎はGHQ草案の中身を読むなり、日本国民の民意を無視したあまりの内容に怒り心頭。2日後の2月15日、GHQのホイットニー准将宛に「ジープウェイ・レター」をしたため、検討に時間を要することを伝えます。

そして、次郎は松本烝治国務大臣と共に、ホイットニーのGHQ側の憲法草案が余りに急進的な改革を要求するものであることにあきれ、松本氏の元で率直に批判する文書を作成し、ジープウェイ・レターを送ったのです。

それは松本烝治国務大臣の要求に応えるためのものでしたが、次郎本人も同じ思いでしたから、ホイットニーー民政局長に宛てて、GHQ草案が松本大臣はじめ、日本側の関係者に大きな衝撃を与えたことを伝え、遠まわしに「松本案」の再考を強く希望する旨を強調しての返信でした。

白洲次郎はGHQ草案は日本が敗戦国という弱者ゆえの、その内容があまりにも一方的で、記載されている多くが正に日本国民の無視の指令であるとし、また、松本案とGHQ草案は目的を同じくしてはいるものの、その目的に到達する道すじを異にするだけだとして、「松本案」は日本の国状に即した道すじ(ジープ・ウェイ)であるのに対して、GHQ草案は時間の余裕を与えず、一挙にその目的を達しようとするものだと、反論したのです。

《ジープ・ウェイ・レターについて》

“以来、『松本案は日本の国状に即した道すじ(ジープ・ウェイ)であるのに対して、GHQ草案は時間の余裕を与えず、一挙にその目的を達しようとするもの』の反論書簡の中で使われた“道すじ(ジープ・ウェイ)”がこの往復書簡の呼称として使われるようになります”

ロンドンのケンジントンガーデン

《マッカーサー元帥側と数日間の言語での戦いをした次郎でしたが、その甲斐もなく2月21日GHQ草案の受け入れを決定》

★この書簡に対して、ホイットニー局長から翌16日、返書が寄せられます。その内容は同局長は日本側が、白洲の書簡によってGHQの意向を打診し、「松本案」を固守しようとする態度に出ているとして厳しく反論。それだけではなく、国際世論の動向からしてもGHQ草案を採ることの必要性を力説したのです。

次郎は相手がマッカーサー元帥であっても、言いたいことは率直に口にしましたが受け入れられず、数日間の言語での戦いを終えて1946年2月21日、幣原首相がマッカーサーと会い、GHQ草案の受け入れを決定します。

そして、日本政府は22日の閣議においてGHQ草案の事実上の受け入れを承認。26日の閣議においてGHQ草案に沿った新しい憲法草案を起草することを決定します。なお、閣僚に配布された英文で綴られたGHQ草案全文の仮訳は、2名の外務省翻訳官と共に、白洲次郎の最大限の努力あってのものでした。

その頃、妻正子は日本の装丁家・美術評論家。骨董収集鑑定でも著名な青山二郎(当時45歳)と出会い、彼の影響で骨董の世界に没頭するようになっていました。後日、青山二郎の解説を予定しています。

《註:青山二郎の母の従姉妹クーデンホーフ光子は、フランスの香水「ゲランミツコ」の名の主で知られますが、ウィーンの社交界で名を馳せたハインリヒ・クーデンホーフ=カレルギー伯爵夫人でした。なおクーデンホーフ光子については後日、改めて解説を予定しています》

★1946(昭和21)3月6日に閣議で新憲法の最終草案が了承され、発表されるとマッカーサーは声明を出します。

「天皇、政府によって作られた新しく開明的な憲法が、日本国民に予の全面的承認の下に提示されたことに深く満足する」

このGHQ草案を元にした憲法は、日本を管理する為の政策機関として設けられた極東委員会からも“国民は憲法を理解していない。時期尚早である”と反発があがります。しかし、GHQは8月24日の吉田内閣が誕生したことで、衆議院で圧倒的多数で可決してしまいます。

でも、なぜアメリカはこのように新憲法の決定を急いだのか…。

極東委員会とは第二次世界大戦に敗戦した日本を占領統治する機構として、世界的に認められた機関で、戦争直後の1945年9月には設置されました。委員会はアメリカ、英国、ソビエト連邦・中国やオランダなど計11カ国で構成され、日本は委員会により「世界による統治」が始まることになっていたのです。ですから一説にはその前にアメリカが日本をコントロールするためにアメリカ独断の憲法を作る必要があったとされます。

《白洲次郎についての解説は明日も続きます》

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手したその他の資料、ウィキペディアなど参考にさせて頂いています》

(旅行ジャーナリスト・作家 市川昭子著)

★画像・記事の転載・転用、ダウンロードはお断りいたします。どうぞよろしくお願い致します。

この記事を書いたユーザー

市川昭子 このユーザーの他の記事を見る

★旅行ジャーナリストとして長い間、公私共に海外の国々を訪れ取材し滞在。美術館巡りが好きで「ヨーロッパの美術館」など著書も出版。海外ガイドブック30冊以上(フランス、イタリア、イギリス、ベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、ハワイ、アメリカ、香港、韓国、グアム、サイパンなどなど十数カ国のガイドブック)を取材し出版。★小説【あなたが生きた街】を出版。

得意ジャンル
  • 海外旅行
  • 国内旅行
  • カルチャー
  • コラム

権利侵害申告はこちら

Spotlightのライターなら1記事最大3000円もらえる!日本最大級メディアでライターデビューのチャンス