友人の医師・宮崎青爾さんの作品です

『白洲次郎・正子夫妻とその友人たち』■第4章■“太平洋戦争を察知した白洲次郎の転身”

《支那事変、大東亜戦争から第二次大戦の発端となる日米開戦を白洲次郎は事前に察知

1937(昭和12)年、白洲次郎が35歳、妻正子が27歳の時は次郎が日本食糧工業(後の日本水産株式会社)の取締役に就任した年でしたが、日本は中国を相手に支那事変が始まり戦闘体制に入ります。

そして、その時は支那事変がその後、大国アメリカを相手にした新たな戦争“太平洋戦争・第二次世界大戦”にエスカレートしてゆくことなど、誰も予想していませんでしたが、白洲次郎は“太平洋戦争”が勃発する2年ほど前、政府や軍部の動きから日米開戦の可能性が高いことを事前に察知していたのです。

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《日本が奇襲した真珠湾攻撃を端にして始まった第二次世界大戦》

《太平洋戦争とは》1941~45年、日本がアメリカ海軍が多数駐留するハワイの真珠湾を宣戦布告なしで奇襲したことから事が大きくなり、それは時を待たずして大日本帝国など枢軸国と、連合国(主にアメリカ合衆国、大英帝国、オランダなど)との戦いに発展してゆきますがなぜそうなったのか。

当時、第一次世界大戦に敗北したドイツは独裁政治によって軍事力を強化し、ファシズムに走っていました。そして、恐慌から逃れるべくナチス党のヒトラーは1939年にポーランドに侵攻し、ポーランドと同盟を結んでいた英国、フランスがそれに対抗しドイツに宣戦布告。第二次世界大戦が始まりました。

その頃、日本は日中戦争時にありましたが、各国から集中して非難を浴びて孤立していたことで、ナチスのドイツと1940年6月10日、英国とフランスと開戦したファシズムのムッソリーニが率いるイタリアと同年9月27日に日独伊三国同盟を調印して日本とドイツ、イタリアとの密接な関係を結びます。でも、この同盟は苦境に立つ英国を支援するアメリカとの対立を深める原因になり、石油などの燃料や鉄を日本に輸出しないというアメリカの経済制裁を受けることになってしまいます。

そして、石油などの輸入を規制された194011月、アメリカ側から日本に中国からの日本軍の撤兵、日独伊の同盟廃棄など様々な条件を最後通告として言い渡されます。日本にとってはすべて無理難題。1941年年10月、首相に就任した東条英機は怒りに燃えて真珠湾に駐留するアメリカ海軍を攻撃。太平洋戦争を始めたのです。その戦争の日本側の正式名称は1941年(昭和16年)12月12日の東條内閣閣議決定された「大東亜戦争」。その中には支那事変も含めるとされました。

また、第二次世界大戦の戦域を大別すると、ドイツ、日本、イタリアの三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、英国、フランス、ソビエト連邦、アメリカ、中華民国などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の戦争で、1939年から1945年までの6年間という長い間戦いが続けられました。

その損失は大きく、第二次世界大戦における連合国・枢軸国および中立国の軍人・民間人の被害者数の総計は5000万〜8000万人とされますが、8500万人とする統計もあるのです。当時の世界の人口の2.5%以上が被害者となった悲惨な戦争でした。

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《無愛想と自認していた次郎はもじって新天地の居を"武相荘”と名付ける

世界戦争になるまでとは思わないまでも、日米開戦の可能性が高いことを事前に察知した白洲次郎は、1940年(昭和15年)、戦禍を避けるために東京府南多摩郡鶴川村能ヶ谷(現在の東京都町田市能ヶ谷)の古い藁ぶき農家を購入し、正子共々早々と疎開します。

農家は鶴川村が武蔵国と相模国にまたがる場所にあったこと、次郎自身が自分の性格を無愛想と評していたことから無愛想をもじって「武相荘」と名付け、戦争のよる食料不足を自給自足で補えるよう、農夫に転業し、自給自足を始めます。それは次郎41歳、正子33歳の時でした。1943(昭和18)年5月、鶴川村へ転居した以降、次郎は終戦まで農業に勤しみ楽しみました。

★とはいうものの終戦までの間、何事もなく農夫として生活をしたのではありません。戦争末期には、日本国がとった政策“成人男子総赤紙の「国民兵役招集」”のため、他の男性同様に赤紙で兵役の招集を受けていたのです。でも、彼は元来、吉田茂と同じように反戦派でしたから、赤紙を受けたとき、従軍することに従うわけはなく、“最初から負けると分かっているような戦争の為に一滴たりとも自分の血を流すようなことはしたくはない”と言いながら知人だった当時東部軍参謀長の辰巳栄一(元駐英陸軍武官・陸軍中将・陸士27期)の元を訪れたそうです。

次郎の性格とその意思をしっかり理解していた辰巳は、軍にとがめられる友人の姿を見たくなかったのかもしれません。困惑しながらも結局、彼のために軍上層部に働き掛け、次郎は召集を免れます。

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《終戦後、吉田茂外相の元で次郎はGHQとの折衝の矢面に立ち奮闘・ジープウェイ・レター》

そして、1945年9月2日、次郎43歳の時、第二次世界大戦は終戦を迎え、その年の12月、白洲次郎は東久邇宮内閣の外務大臣に就任した吉田茂外相の要請で、終戦連絡中央事務局参与に就任。以後、サンフランシスコ講和条約の発効まで、次郎はGHQとの折衝の矢面に立ち、政治の表舞台でその存在感を示してゆきます。それは敗戦という惨めな結果に終わった日本でしたが、白洲次郎はそんな日本を誇りをもって世界にアピールしたいと思っていました。ですから、敗戦国日本であっても、英国仕込みの英語で主張すべきところは頑強に主張し、GHQ某要人をして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめたのです。

なお、終戦直前の1945(昭和20)年5月23日の東京空襲での罹災を心配して次郎が河上徹太郎を訪ね、家を失った河上夫妻を伴って鶴川に帰りますが、以後2年間、河上夫妻は武相荘を仮の住まいとしています。

《註:河上徹太郎(1902年(明治35年)1月8日~1980年(昭和55年)9月22日)は日本の文芸評論家、音楽評論家で、日本芸術院会員でありり、小林秀雄、中原中也、大岡昇平、青山二郎、諸井三郎、吉田健一、白洲次郎たちと親交を深めていました。なお夫人綾子は男爵・大鳥圭介の孫にあたります。この中の青山二郎は妻正子に大きく影響したご仁。後日綴ります》

★次郎44歳になった終戦の翌年1946(昭和21)年、2月13日、GHQが新憲法総司令部案(マッカーサー草案)を日本側に渡すと同時に次郎の手許に草案が届きます。

内容を一読した次郎は、2日後、GHQのホイットニー准将宛に「ジープウェイ・レター」をしたため、検討に時間を要することを伝えます。

★この「ジープ・ウェイ・レター」往復書簡の交換は有名ですが、当時次郎はホイットニーのGHQ側に、憲法草案が余りに急進的な改革を要求するものであることを批判する文書を出しています。これが世にいう『ジープウェイ・レター』ですが、書簡の命名は、GHQのやり方に対して反論した文章の中で使われた言葉からとったもので、以来、往復書簡を新聞などでそう呼称するようになったのです。

《白洲次郎編サンフランシスコ講和条約の発効までの詳細は明日に続きます》

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手したその他の資料、ウィキペディアなど参考にさせて頂いています》

(旅行ジャーナリスト・作家 市川昭子著)

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★旅行ジャーナリストとして長い間、公私共に海外の国々を訪れ取材し滞在。美術館巡りが好きで「ヨーロッパの美術館」など著書も出版。海外ガイドブック30冊以上(フランス、イタリア、イギリス、ベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、ハワイ、アメリカ、香港、韓国、グアム、サイパンなどなど十数カ国のガイドブック)を取材し出版。★小説【あなたが生きた街】を出版。

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