1275年に「商人のコミュニティ」として創建されたステープル・イン

《多くの人たちが憧れるダンディな生き方を示した白洲次郎》

175cm、体重:65kgという理想的な体型を自負した白洲次郎は、スポーツ万能で晩年には三宅一生のモデルを務め、おしゃれでダンディなその姿を公開しました。おしゃれは外見だけではなく、自分なりの蘊蓄を掲げて辞さなかったコーヒーは、イタリアン・ローストで細かく挽いたものを好み、晩年は青山の紀ノ国屋でよく購入していたと伝えられます。

白洲次郎を「メイド・イン・イングランド」と形容した人がいますが、正に言い得て妙。その呼称を知ってか知らぬか、彼もイングランド人らしく当時の日本人には見られないユーモアやウィットを解する人でもありました。趣味も多彩でしたが、若い頃から“オイリーボーイ”と呼称されるほどの車好きで、傘寿の80歳を過ぎても愛車ポルシェを運転し、ドライブの旅を楽しんでいたと伝えられます。

★自分の信念に基づいて生き続けた彼は、それゆえに自信家でもあり、いつも歯に衣(きぬ)を着せぬ物言いで何事に対してもはっきり主張したことから、敵を作ることも多かったようです。でも、実際には彼の持論に賛同する人の数の方が圧倒的に多く、当時は彼を慕って集まってくる若者が多数いました。

また、その物言いから多くの“白洲次郎名言”も遺し、今なお白洲次郎ファンたちに語り継がれています。

白洲次郎(しらすじろう、1902年2月17日~1985年11月28日)は、日本の官僚を務め、その後実業家になります。また、英国留学で培った語学力を買われ、終戦連絡中央事務局次長、経済安定本部次長、貿易庁長官などを経て、東北電力会長などを歴任して生涯を終えます。

次郎は明治時代を僅かとした1902年(明治35年)2月17日、兵庫県武庫郡精道村(現・芦屋市)に白洲文平・芳子夫妻の二男として生まれます。

★ちなみに父親の白洲文平(1869年(明治2年)~1935年(昭和10年)10月23日)は、兵庫県三田市に生まれ、築地大学校(現・明治学院高校)卒業後、ハーバード大学、ボン大学に留学するという、当時では考えられない二度の海外留学をしています。もちろん、資産に恵まれた名門の家に生まれたゆえの留学ですが、それだけではなく勉学に勤しんだ白洲文平あってのものでした。帰国後は三井銀行や鐘紡に勤めますが、それも商業を学ぶためのもので早い時期に退社し、兵庫県神戸市中央区栄町に貿易会社白洲商店を創業。時流に乗ったことで綿貿易により発展して巨万の富を築きました。

建築が趣味で多くの邸宅を次々に建て、兵庫県伊丹市に建築した邸宅は4万坪の敷地にコロー、モネ、マティス、ピカソなどの作品を収めた美術館や煉瓦造の給水塔などを備えた豪邸でしたが、1928年(昭和3年)に昭和金融恐慌により白洲商店は倒産。豪奢な邸宅も生活も衰退します。

とは言っても無一文になったわけではなくその後は阿蘇山麓の大分県竹田市荻町に洋館を建てて移り住み、その地で66歳の生涯を終えます。白洲次郎は当時、金銭に糸目をつけない豪奢で貴族のような生活をした裕福な家の息子として誕生したのです。


《旧制第一神戸中学校では不真面目な学生という烙印を押され問題児だった次郎》

白洲次郎は10歳を迎えた頃、現伊丹市の兵庫県川辺郡伊丹町に父が建てた邸へ転居し、そこから1914年(大正3年)旧制第一神戸中学校(のち兵庫県立神戸高等学校)に入学。中学ではサッカー部・野球部に所属します。

幼い頃から恵まれ過ぎた環境の中で育ったことも一つの要因だろうと思いますが、自分の思うようにならないと、癇癪を起こすわがままさで中学校では手のつけられない乱暴者という烙印を押され、多くの問題を起こし、当時白洲家には相手の家にすぐ謝りに行けるよう菓子折りが常備されていたと言います。

それは見方を変えれば、誰にも束縛されない自由な気風を好む白洲家に育ったことで、校則や他の規律で束縛された学生生活は次郎には耐え難く、溜まったフラストレーションのはけ口として、時には友人を相手に暴れたのだと家族は理解していたようです。

もしかして、父親は例え乱暴者であっても、周囲から軽蔑の眼で見られていても、型にはまらないで自由に生きている息子に満足していたのかもしれません。その証しに次郎の要求のままにアメリカ車ペイジ・オートモビルのグレンブルック(Glenbrook)を買い与えています。もちろん、次郎は大喜び。愛車に級友たちを同乗させ、乗り回したのです。その頃から彼を“オイリーボーイ”と呼称し、傘寿の80歳を過ぎても愛車ポルシェを駆って旅に出るという車好きにさせたのです。

《中学校時代の同級生には無頼漢の今日出海氏、真面目で文化功労者の吉川幸次郎氏も》

神戸中学校時代は机上の勉強には不真面目でしたから成績は中以下。成績表の素行欄にはやや傲慢、怠惰などといった文字が並びました。また、不真面目さは勉強の世界だけではなく、神戸一中時代で禁止されていた宝塚歌劇団の生徒と恋仲になり親を泣かせたりします。

でも、当時同級には次郎以上の無頼漢がいました。後に作家で文化庁長官となった今日出海氏がいたのです。今氏の破天荒な生き方は白洲次郎以上の不真面目さがあり、その後生臭坊主という異名を取り、注目の人となりました。反面、勉学に励む真面目な学生もいたのです。後に古典中国文学者の大家として、また、文化功労者になった吉川幸次郎氏も白洲次郎の友人の一人でした。

《註:神戸一中は明29年4月に兵庫県神戸尋常中学校開校し、鶴崎久米一が初代校長に任命されます。その後、明32年兵庫県神戸中学校と改称し同年寄宿舎を開設。明治42年に校長・鶴崎久米一の発案により、オレンジ色に近いカーキ色の派手な学生服を採用。この特徴ある制服は鶴崎が校長を兼務していた同校と神戸二中(現兵庫高)のものであったことで、全国屈指の上級学校進学成績を誇った戦前には『エリートの証』として羨望の対象となります。戦後は通常の黒詰襟に変更されます。昭和50年代までは公立校としては傑出した学力に加え、部活動全般においても県内トップクラスの実力を保ち『文武両道』の名をほしいまま。現在も関西難関国立三大学(京都大、大阪大、神戸大)の合格者数合計は2011年、2013年、2014年と県内の公立高校ではトップを誇り、名門校として注目を集めます》

《悪ガキの息子に手を焼いた父親は次郎を英国のケンブリッジ大学に留学させる》

1919年(大正8年)神戸一中を卒業した後、悪ガキぶりを発揮する次郎に手を焼いた父親文平は、自分の留学の経験から得たものが多かったことで、次郎を英国へ留学させます。

当初はケンブリッジ大学クレアカレッジに聴講生として留学し、西洋中世史、人類学などの授業を聴講しますが、その間も真面目な留学生とは程遠く、父親の財力にもの言わせて自動車に夢中になり、ブガッティベントレー・3リットルを乗り回すという贅沢三昧な生活を送って、英国人にへつらうことなく青春を謳歌。

ちなみに日本からの仕送りの額は現在の金銭価値にして年間4000万円ほどと伝えられます。それを帰国までの約10年間、仕送りさせた白洲次郎。そして、仕送りを続けた父白洲文平。白洲家の財力のすごさがわかります。

《『白洲次郎・正子夫妻とその友人たち』編は次回も続きます》

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手したその他の資料、ウィキペディアなど参考にさせて頂いています》

(旅行ジャーナリスト・作家 市川昭子著)

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★旅行ジャーナリストとして長い間、公私共に海外の国々を訪れ取材し滞在。美術館巡りが好きで「ヨーロッパの美術館」など著書も出版。海外ガイドブック30冊以上(フランス、イタリア、イギリス、ベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、ハワイ、アメリカ、香港、韓国、グアム、サイパンなどなど十数カ国のガイドブック)を取材し出版。★小説【あなたが生きた街】を出版。

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