パリのセーヌ河畔に建つオルセー美術館

『30点余のコレクションを誇るルノワール』Pierre-Auguste Renoir

《自分が興味を抱くのは景色ではなく“人”人物像であることを知ったルノワール》

オルセー美術館の三階にコレクションされている多くの作品が、美術館のハイライトともいうべき印象派画家たちのものですが、その中でも群を抜いて多いのが、オーギュスト・ルノワールの作品です。

それらは50点にも及び「ひなげし」(1873年頃)はじめ、代表作「都会のダンス」「田舎のダンス」(いずれも1883年)、「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」(1876年)、「ピアノに寄る少女たち」(1892年)など興味深い作品群が一堂に並びます。その様は圧巻としか言いようがなく、誰もがルノワールの感動的な世界の中に立ち尽くし、容易にその場を立ち去ることができません。

パリのレ・アル地区に建つ壮大サン・トゥスタッシュ教会

レ・アル地区の一角に建つ壮大なこの教会の起源は1214年と古く、パリ最古の教会の一つとして、また、パリ随一の美しい教会で知られます。教会前に置かれた重さ70tもある巨大なオブジェもパリ随一の大きさ!1754年にルネッサンス様式から現在のネオ・クラシック様式になり今に至ります。

1700年代にはモリエールラ・フォンテーヌ・ミラボーなどの葬儀、モーツアルトの母親の葬儀などが行われた由緒ある教会でもあります。内陣の窓を飾る1631年制作のステンドグラスとフレスコ画は教会の自慢。

《作曲家グノーはルノワールの音楽の才能にほれ込みました》

ピエール・オーギュスト・ルノワールPierre-Auguste Renoirは、1841年2月25日、フランス中南部のリモージュで仕立屋とそのお針子の両親の元に生まれ、3歳の時、一家でパリに移住します。貧しい生活でしたから小さなアパルトマンに居を構えます。それはルーヴル美術館近くでした。

貧しくとも幼い頃から絵の才能を見せていたルノワールは、手にはいつもスケッチブックがあったと伝えられます。また、彼の才能は絵ばかりではなく、それ以上に長けていたのが美しい歌声でした。

9歳になったルノワールは周囲の者たちの勧めで、パリの古刹で知られるサン・トゥスタッシュ教会(画像)の聖歌隊に入り、作曲家グノーから声楽を学びます。彼の音楽の才能にほれ込んだグノーは、オペラ座の合唱団に入れることを両親に望んだこともありましたが、結局、貧しさゆえに聖歌隊も辞め、リモージュという陶器の町に住んでいたこともあり、その縁で1854年、生活のために13歳で磁器工場に入り、磁器の絵付職人の見習いとなります。しかし、4年後、社会の急激な変化に追いつかなかった磁器工場が倒産。

職を失った彼は、それまで封印してきた画家の道への夢を思い起こし、4年後の1862年、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)の試験を受け、合格します。

でも、彼は美術学校で学ぶことよりも、リベラルな作品を描くシャルル・グレールのアトリエに通うことを望み、画塾生となってグレールの師事を受けるようになります。そこでは画塾の先輩であったモネシスレーなどと知り合い、次第に交流を深めてゆきますが、自分が望んだ師匠に就いたことだけあって、ルノワールの絵の腕は上達し、いつしか先輩たちを追い抜くほどの腕となってゆきました。

1864年、23歳になった年に初めてサロンに「踊るエスメラルダ」を出品し入選します。でも、順調にことが運んだのはそれが最後でした。その先は簡単に前に進むことはなく、苦悩する自分との闘いが待っていました。

というのもルノワールの絵の上達に比例するかのように、師であるシャルル・グレール手法に対する思いが少しずつ薄れていったからです。それが迷いとなり、画布に思うような世界を描くことが出来なくなったことで、その後はサロンでの入選も数えるほどとなり足踏み状態が続きます。

そして、その後、迷ったままの状態で、藁をも掴む思いでモネの誘いを受けて印象主義のグループに加わり、1874年、第一回印象派展覧会に参加します。そこから印象派として新境地を拓きたかったのでしょう。また、新天地で変化を見つけ、何かを得たかったのかもしれません。同胞のマネからも影響も受けるのですが、それでもルノワールは不安で仕方なく、そこに安住はできませんでした。

というのも当初から印象派画法に納得しての参加ではなかったからです。ですから、以後、流れに身を任せて、第二回、第三回の印象派展覧会に参加するものの、やはり、納得はゆかず第四回と第七回以降は不参加とします。

セーヌ川に佇むオルセー美術館

《独自の手法が見つからず苦しむルノワールはイタリアへ留学》

悶々として時を過ごす彼でしたが、でも、そこで立ち止まらず、苦しみながらも自分を叱咤しながら独自の手法を少しずつ編み出してゆこうと決心します。そして、形状の正確性を失った印象主義に抵抗を感じていたルノワールは、意を決し、翌年の1880年、イタリアに渡りルネッサンスの巨匠ラファエロなどの作品を間近にして、自分の疑問を解きながら学ぶことを始めます。

短期間のイタリア滞在でしたが、多くを学んで帰国した彼は、その後も自分の求める絵の世界がどのようなものであるのか、具体性に欠けている部分を模索してゆきます。

そして、納得を得ない限り自分に妥協しない勤勉家のルノワールは、イタリアへの旅を機にして、模索を繰り返しながら作風の改革に着手します。それは納得できない印象派手法とは異なるものであり、既存のどの派にも相似しない独自の作風を創り出そうというものでした。ですから見つけるまでの模索期間は、苦しく辛い日々が続きました。

★写真はセーヌ川に佇むオルセー美術館です。近くの「芸術の橋」を渡った右岸にモローが教鞭をとった国立美術学校が建っています。そして、今も名門の名に恥じない多くの優秀な芸術家たちを輩出しています。パリには世界に名だたる美術館はいくつもありますが、オルセー美術館はその中でもルーヴル美術館に次ぐ人気の美術館のひとつに数えられるもので、フランスの印象派画家たちの作品を一堂にコレクションするという名門の美術館で知られます。

《妻と息子で優しい家庭を築いたことでルノワールは進むべき道を見つけます》

そんなとき、1885年、思いもかけず息子ピエールが誕生します。

そうなのです、1883年に完成した「田舎のダンス」のモデルを務めたアリーヌ・シャリゴとの間に一子が誕生したのです。その頃は愛し合っていただけで結婚はしていませんでしたが、幸せな家庭生活の中で、制作しながら彼は気づきました。

★自分は景色を描く画家ではなく、印象を大切にするのではなく、マニエリスムにも似た形状を重視する画風を欲している。そのことに気づくのでした。自分が描く対象に興味を抱くのは“景色”ではなく“人”、つまり人物像に限られていることを知ったのです。それも小さめの画面でそこに醸し出す情景を描くことが好きであることに気がついたのです。

その気づきは平穏な生活の中で見つけました。

そして、自分の手法を見つけた後の1890年、彼女と正式に結婚し家庭を築きます。妻と子供に囲まれて心身ともに落ち着いて日々を過ごすようになったから、心に余裕ができ、自分をしっかり見つめることができた。それゆえに、自分の進むべき道を見定めることができたのだと。そう思ったのです。そして、彼は画家としての生涯を通して、この種のテーマを描き続けることとなります。

★ルノワール編は続きます。

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手したその他の資料、ウィキペディアなど参考にさせて頂いています》

(旅行ジャーナリスト・作家 市川昭子著)

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★旅行ジャーナリストとして長い間、公私共に海外の国々を訪れ取材し滞在。美術館巡りが好きで「ヨーロッパの美術館」など著書も出版。海外ガイドブック30冊以上(フランス、イタリア、イギリス、ベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、ハワイ、アメリカ、香港、韓国、グアム、サイパンなどなど十数カ国のガイドブック)を取材し出版。★小説【あなたが生きた街】を出版。

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