ルーベンスの菩提寺聖ヤコブ教会のステンドグラス

『16歳の少女と53歳のルーベンスの二度目の恋』Peter Paul Rubens in Antwerpen

《8年の留学を終え故郷の戻った翌年、貴族の娘イサベラ・ブラントと結婚》

ルネッサンス革命に湧くイタリアに8年もの間留学をしていたルーベンスは、1608年に帰国。そして、帰国して間もない1609年10月3日、アントワープの貴族の娘イサベラ・ブラントと結婚します。また、翌年、街の中心地に近い一角に家を購入し幸せな新婚時代を過ごします。その後も、順調過ぎるくらい多くの仕事に恵まれて多忙な日々を送り、公私ともに幸せな時間の中で、画家としての腕をますます磨き上げたルーベンスは、感性豊かな作品を次々と世の中に送り出してゆきました。

でも、結婚17年目、ルーベンスが49歳の誕生日を迎える直前、貴族らしい気品に満ち、慈悲にも満ち、その上利発で賢明な女性だった妻は、クララとニコラ、アルバートという3人の子供を残して、ペストに冒され急逝します。34歳という若さでした。

アントワープのルーベンスの家

《妻を失った悲しみを胸にする画家を心配したイザベラ大公の思いやり》

ルーベンスとイサベラの17年の結婚生活に終止符が打たれたその頃のアントワープは、1610年にオランダとフランドルの12年間の休戦協定が結ばれたことで、しばらくは平穏な日々が続いていましたが、平和な時間は束の間でした。10年余の1621年にその協定期限が切れるや否や、アントワープを含めた周辺の街や村は再びスペインが仕掛けた戦禍に巻き込まれる、という悪夢に襲われたのです。当時、ルーベンスは宮廷画家としてだけではなく、国の長であるイザベラ王妃に信任が厚く、5ヶ国の言語に精通していることから外交官としても活躍していました。

1628年、王妃は妻を亡くしたルーベンスの悲しみに満ちた心を癒すためもあって、和平のための外交使節として、スペインのマドリードに派遣します。彼の肩に戦争の調停という使命を課せ、派遣したのです。

★彼は王妃の思い通り、異郷の地で外交官としての役目を果たすことで、妻を失った悲しみから少しずつ開放され、外交の一応の成果を得たことで、気持ちも癒され、いつものルーベンスに戻りつつありました。

そして、王妃の好意で時間に余裕を得ていたルーベンスは、気持ちが癒されたことで、持ち前の勤勉さと貪欲さが復活。本命の仕事の合間を見ながら、当時、スペイン王室の宮廷画家として活躍していた巨匠ベラスケスに会ったり、宮廷に招かれたのを機に、宮廷が所蔵するティツィアーノの作品を模写したりして、自分の画家としての領域を広げるための努力を惜しまず、日々精進します。

《註》ティツィアーノは16世紀の盛期ルネサンスのイタリア人画家で、ヴェネツィア派で最も重要な画家の一人としてイタリアの絵画界に君臨した巨匠です。画家の奔放な筆使いと繊細で多様な色遣い、そして、それまでの西洋絵画に前例のない革新的な手法を用いたティツィアーノの作品は、観る者を圧倒したのです。もちろん、ルーベンスもその一人でしたし、イタリアに留学する前からのファンであり、尊敬してやまない画家でした。

スペイン王室はティツィアーノの秀作の多くをコレクションしていましたから、それを知ったルーベンスは、ひとたまりもありません。休日のすべての時間と外交官としての役目の合間を利用し、模写をして、ティツィアーノの研究に余念がなかったのです。その辺りを鑑みれば、ルーベンスの描くモチーフはティツィアーノと同じものが数多く、女性の描く手法も相似するところがあるのもうなずけます。

ルーベンスの菩提寺聖ヤコブ教会に飾られた自画像

《最愛の妻を亡くした4年後、53歳のルーベンスに新しい恋が芽生えます》

49歳のとき、最愛の妻イサベラ・ブラントを亡くしたルーベンスは、イザベラ王妃の尽力もあって、忙しく働くことにより、悲しみが癒され、外交官としても成功の道を歩み出すのです。そして、その4年後、1630年、画家としても円熟期を迎えようとする53歳のとき、新しい恋に出会います。愛妻イサベラの姪(一説には友人の姪とも伝えられます)のエレーヌ・フールマンとあるパーティで劇的な出会いをするのです。

そうなのです、エレーヌに会った瞬間、ルーベンスは身動きできないほど心を奪われるのです。エレーヌは気品あふれる美しさを持ったイサベラとは異なり、ふくよかな肢体を誇る16歳の若き女性でした。何事にも恐れない度胸を持ち合わせ、16歳という若さとは思えない堂々とした態度に新鮮さを見たルーベンスは、その場に釘付けになったのです。

でも、それは大きな問題のある出会いでした。相手は大人びて見えはしましたが、ルーベンスとは37歳もの年の差があったから、相手の年齢を知ったルーベンスは、一旦は奪われた心を捨てようとあきらめるのですが…。

でも、エレーヌもルーベンスに会った途端、一目ぼれでした。ですから自然の成り行きに任せた二人の間には、いつしか愛が芽生えていたのです。

エレーヌは少女と言ってもいいほどの若い女性でしたが、身体も雰囲気も既に大人でした。また、決して美人ではないのですが、女性らしさにあふれていましたから、ルーベンスは惹かれたのでしょう。ただ、まだ先妻を失った悲しみの残る寂しさの中での出会いでした。気持ちは尋常ではなかったかもしれません。でも、例え、寂しさあっての一目惚れであっても、その後、互いに恋し、真剣に愛し合ったことは事実でしたし、悩んだ末の愛ゆえに、二人の結びつきは強かったのです。《次回に続きます》

ルーベンスの晩年の作品「聖家族」

《ルーベンスの晩年の作品「聖家族」に込められた二人の妻への思い》

写真はルーベンス家の菩提寺の聖ヤコブ教会に設けられている“ルーベンスの墓所”です。墓所に掲げられているこの作品「聖家族」(1638~39年制作)は、ルーベンスが生涯を終える1年前に完成した晩年の作品です。

★画面左側の鎧姿の聖ゲオルグはルーベンス自身、青い服をまとった聖母マリアは最初の妻イザベラ・ブラント、そして、聖ゲオルグのすぐ右に立つマグダラのマリアはエレーナ・フルマンとされています。

作品は慢性の痛風を患っていたルーベンスでしたから、死期を知っていたのでしょう、自分の墓所を飾るために、生涯に愛した二人の女性を傍らにした永遠の愛を描いたと思われます。作品では家族を見守っているのでしょうか、ルーベンスの表情が強面で長たる威厳を示しているのが印象的です。いかに家族思いであったかをうかがい知ることができる作品のひとつだと思います…。

なお、この菩提寺で1630年12月6日、再婚相手のエレーナ・フルマンとの結婚式を挙げ、彼らの子供たちはいずれもここで洗礼を受けています。

ルーベンス家の菩提寺“ヤコブ教会”については後日、解説を予定しています。

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手したその他の資料、ウィキペディアなど参考にさせて頂いています》

(旅行ジャーナリスト・作家 市川昭子著)

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★旅行ジャーナリストとして長い間、公私共に海外の国々を訪れ取材し滞在。美術館巡りが好きで「ヨーロッパの美術館」など著書も出版。海外ガイドブック30冊以上(フランス、イタリア、イギリス、ベルギー、オランダ、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、ハワイ、アメリカ、香港、韓国、グアム、サイパンなどなど十数カ国のガイドブック)を取材し出版。★小説【あなたが生きた街】を出版。

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