前回の記事から、色々な書き込みなどを見ていて、私は特別に「ベッキー」のファンというわけではないですし、ブログの記事にするつもりもなかったのですが、何となくいろんなことが気になってきました。

ベッキーが仕事復帰した13日放送のTBS「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」は、平均視聴率が24.0%で多くの国民が関心を持って見ていたようです。

「ベッキーの復帰に賛成?反対?」というアンケート結果を見ました。今現在(2016年5月19日)の結果です。

・反対・・・1583件(81.7%)
・賛成・・・354件(18.3%)


「芸能界は、世の中はシビアだな」と思わされる結果でした。嫌悪感に満ちた怒りのコメントも多かったですし・・・。

「不倫は倫理的に間違っている」ことは明白ですし、相手の奥さんの気持ちを考えれば、予想通りと言える結果かも知れません。

ベッキーの一連の報道について、良くテレビで見ていた「ベッキーが」ということはたしかに驚きましたが、私自身は「芸能人によくあること」とも思ったし、当初の関心は薄かったです。

けれど私の場合、夫が牧師をしているので、教会でも「罪を犯した人に対して、どう判断し、接していくか?」ということの判断が分かれたり、難しい場合があります。

教会では、「神さまは義であり、愛であるお方」であると教え、そのどちらも重要であると教えています。

私個人的に、「不倫」について、クリスチャンではない方々は「良くあること」と思っているのか?「絶対に許されない」と思っているのか?また、ベッキー「復帰」が予想される中で、人々はどう判断(ジャッジ)し、どんなことを言うのか?という部分で、関心が出てきました。

新約聖書「姦淫の場で捕えられた女性」

私は直接、ベッキーの謝罪を含む「金スマ」の番組と聖書の中の「姦淫の場で捕えられた女性」の箇所を関連づけて思い出さなかったのですが、たしか牧師先生の中で、関連づけてコメントされていらした方がいたように思います。

残念ながら「後で読もう」と思って、内容を読むことなくそのまま見失いました。泣

旧約聖書の時代、「姦淫の罪」(不倫など)に対する罰は「石打ち」と律法で制定されていました。死ぬまで石を投げつけるのです。

イエスの時代(新約聖書の時代)までそのようだった様子で、「姦淫の罪を犯した女は石打ちの刑だと律法に書かれているが、どうイエスは裁くのか」と律法学者達が迫ったとき、イエスは黙っていました。

男性は逃げてしまったのか、その場にはおらず、その女性を守る人は誰もいませんでした。「男性がいない」という不自然な状況から、この女性はイエスを陥れるための「罠」に使われた可能性が大きくあります。

「姦淫の場で捕えられた」のですから、女性は裸か、または裸同然の格好であったかもしれないと言われています。そのような姿で、人々の真ん中に連れて来られたのです。

さげすみの言葉と、あからさまな嫌悪に満ちた言葉、好奇の目、それらを一身に受けながら、誰一人味方もなく、その女性は死を待つことしかできなかったと思います。

今の「ベッキー」も、考えてみたら同じような状況にあるように思えてきました。今までファンだった人、優しくしてくれた人たちも、今は見る目が変わり、態度が一変したことでしょう。

「ベッキー」も、悪いことだと自覚しつつ、「幸せになれると思った。幸せになりたかった」この「姦淫の場で捕えられた女性」に共通する点があったのかもと思います。

芸能人であるが故に好奇の目と世間の関心を集め、触れられたくない部分や隠しておきたい部分を暴露されて、人の前に、テレビの前に出なければならないとは、罪を犯したと言え、32歳の女性で誰が耐えられるでしょう。一般の女性ではあり得ないほどの経験をされたと思うので、気の毒にも思います。

「不倫」は断じて許されないことですし、多くの人が倫理的に正しい判断をしているでしょう。

ただ、もしベッキーの立場に自分を置いてみれば、「許されなくて当然だけれど、本音では許しを請いたい」気持ちだろうし、不倫相手の奥さんの立場に自分を置いてみれば、絶対に許せないだろうとも思います。

再び「姦淫の場で捕えられた女性」に戻りますが、訴えている「律法学者とパリサイ人」達は、「イエスをためし、イエスを告発する理由を得るため」であったと、この事件の理由について聖書に述べられています。

「石打ちにせよ」と言えば、ローマへの反逆罪で捕えられることになるし、「石打ちにしてはいけない」と言えば、「モーセの律法を守り行なわないつもりか?」と言って訴えられることになるという巧妙な「罠」でした。

しかし、イエスは彼らに答えもせず、身をかがめて指で地面に何かを書いておられました。「何を書いているんだろう?」と、人々の視線はその女性から離れ、イエスの指に集まったことでしょう。

だんだん彼らは苛立ち始め、声を荒げて責め立て、まるでイエスがこの女性と一緒に捕えられ責められている男性のようにも見えた可能性だってあったでしょう。

イエスのこの行動は、「責められる側に身を置いた」ということです。

彼らが問い続けてやめなかったので、イエスが身を起こして言われたことは、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」ということでした。

そして再び、地面に何かを書き始め、それを聞いた人々は、年長のものから順に一人、また一人とその場から去って行きました。

イエスは、「あの女」と言われた女性への注目と女性の罪から人々の目をそらせ、反対に「自分自身へ目を向けるように」仕向けていったのです。

誰もいなくなった時、イエスはその女性に言われました。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」

律法学者とパリサイ人は軽蔑に満ちて「こういう女」「この女」と呼んでいたのですが、イエスだけは違いました。人格を重んじた丁寧な言葉で「婦人よ。」と語りかけられたのです。

彼女は言いました。「だれもいません。」
そして最後に、イエスが彼女に言われた言葉は次のような言葉でした。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

命拾いした彼女は、どんなにか感謝したことでしょう。

「罪」についての判断や取り扱いについて

教会でいろんな人と出会う時、「罪」についての判断や取り扱いについて、難しいと感じることがあります。

「姦淫の場で捕えられた女性」の話しは有名なので、クリスチャンであればよく知っている人も多い箇所ですが、「聖書の中のお話し」ではなく、今、目の前にいる人について「この女」と指を差すのか、それとも「婦人よ」と語りかけるのか。

私自身も問われているように感じました。

「一度失敗した人は本当にダメなのか?」

私たちは、刑務所に入っていた人をお世話することがあります。

彼らは法律に違反し、誰が見ても「犯罪」を犯して刑務所に入ったのですが、出所する時に誰かが身元引受人となり、お世話をすることになります。

牧師である夫は、彼らのお世話をすることを依頼された時、断った記憶がありません。それは、たしかに彼らは犯罪を犯した人だけれど、愛と憐れみを受け、人生をやり直すお手伝いができれば・・・と考えているからです。

「罪を犯した人はもう許されず、アウト」であるなら、誰が「過ちを一度も犯さず、セーフ」であることができるでしょう。

「不倫」は刑務所へ行くような種類の罪ではありませんし、私自身、直接「不倫」はしたことがなく、奥さんのいる人を好きになる感覚もよく分からないですが、不倫をしたことはなくても別の悪いことや罪であれば、たくさん犯してきたし、これからも「自分には罪はない」とは言えないでしょう。

刑務所に入った人の育ちや環境を聞くと、やはり気の毒なケースが多かったりします。普通に一般の家庭に育っていたら、犯罪を犯して刑務所に入らなかったかもしれないと思うような人もいます。

牧師である夫がよく話していることは、「自分が何かをできるとしたら、それは誇るようなことでなく、ただ神による恵みであり、何か特定の罪を犯さなかったとしたら、それも誇れるようなものではない。条件や環境を守って下さった神の恵みと憐れみによる。」ということです。

新約聖書の言葉より

昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。
兄弟に向かって『能なし。』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者。』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」

出典(マタイの福音書5章21~22節)

「『姦淫してはならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」

出典(マタイの福音書5章27~28節)

「律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。なぜなら、「姦淫してはならない。」と言われた方は、「殺してはならない。」とも言われたからです。
そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。」

出典(新約聖書ヤコブの手紙2章10節~11節)

私は「ベッキーの復帰」に賛成でも反対でもありません。

復帰しても風当たりは強く、復帰が必ずしも良い方向に行くとは限らないし、このままそっと引退した方が、嫌な言葉も聞かずに済むかもしれません。

いずれ一生、消えない傷を負い、罪の代償を背負って生きていくことになりそうです。いや、もう既にいろんな形でバッシングを受けています。精神的な病気になってもおかしくないくらい、きっと苦しんでいるだろうと想像しています。

特にベッキーについて強い関心を持っていたわけでもなかったのですが、聖書の紹介と共に「一度失敗した人は本当にダメなのか?」「自分に石を投げる資格があるのか?」という部分を私自身が問いたくて記事にしました。

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