4月は新入学の季節であり、我が身を振り返れば、最も印象深いのは、親元を離れ一人暮らしを始めた大学入学の時です。テストで高得点を出すテクニックを習うだけの詰め込み教育から解放され、自由を満喫できる環境に移れた喜びは計り知れません。

地元福岡のマンモス大学に入学した僕は、大学近くに下宿しました。引っ越しを終えると早速、大家のおばさんから一人の下宿生を紹介されます。僕と同じく新入生で、なんでも大家さんと親戚筋に当たるらしく、遠路はるばる名古屋からやってきたそうです。この子は福岡にまだ誰も知り合いがいないから良かったら一緒に入学式行ってくれない、大家のおばさんに頼まれて、僕たちは二人で入学式へ向かいました。

名古屋からやってきた男、それがでした。僕たちはすぐに意気投合し、行動を共にするようになったのです。

中日ドラゴンズ

二階の角部屋、Kの部屋を訪れると真っ先に目に飛び込んできたのは、壁にでかでかと貼られた中日ドラゴンズのポスター、でした。本棚には星野仙一「燃えた、信じた、勝った!」などのドラゴンズ関連の書籍が並んでいます。元高校球児でもあるKは、生粋の中日ドラゴンズファンでした。

ドラゴンズと言えば、我が福岡ダイエーホークスが初優勝を成し遂げた年に日本シリーズで戦った相手です。互いの健闘を讃えあい、野球談議に花が咲きます。立浪は地元名古屋では神と崇められている、いやマジで神だと信じている、それならホークスだって秋山は…、夜更けまで話は尽きません。

「松中、くれ!」

「やらん。小久保ならやってもいいけど」

「いらん!」

何の権限も無いにも関わらず、勝手にトレードまで進めてしまう始末です。Kは余りに熱心にドラゴンズの抑え投手、岩瀬を絶賛するので、こちらも負けじと、ホークスの篠原だってすげえぞ、ストレートの威力は半端ない、岩瀬に全く引けを取らない左腕、好投手だと熱弁すると、おもむろにKは携帯電話を持って電話を掛けます。

「おい。ホークスの篠原ってすげえらしいぞ。岩瀬と同じくらいらしい」

わざわざ律儀に名古屋の友人に報告していたようです。

赤味噌

下宿は大家さんの家の一角に食堂が設けられており朝と夜、ご飯が用意されます。

その日の晩飯はトンカツでした。

僕の好物です。手元にあったソースをたっぷりかけて頂きます。でも、口に入れた瞬間に違和感を覚えたんです。いつもの、僕の知ってる味じゃ無いんです。

(あまっ!いやっ、しょっぱ?なんコレ?はあ?えっ、味噌?これ味噌?なんで)

僕の舌は完全に混乱しました。頭の中ではどろどろなトンカツソースを味わう準備が整っており、予定が狂ったんです。

ラベルは剥がされていたのですが、透明な容器を仔細に点検し、中身を絞って確認すると、それはどうやら赤味噌で間違いないようです。なぜマヨネーズみたいなボトルに入っていたのか不明です。僕は生れて初めてトンカツに味噌をつけて食べて戸惑い、箸で丁寧に赤味噌を拭って、応急措置でそれを白米に塗りたくり、トンカツには正しくトンカツソースをかけ直したのです。Kに奇怪な事態を伝えると、あっさり白状しました。

「ごめんごめん。それ俺の赤味噌。マイ赤味噌。置き忘れてた。あれじゃないと食えんのよ。味噌汁にも入れてるし」

犯人はKでした。名古屋人らしくKは食べ物には何にでも赤味噌じゃないといけない体質でした。

出典著者撮影

一人暮らしを始めたら、どうしても叶えたい夢が一つある、Kは真面目目な顔で僕に告げました。

ーフルーチェを一人で全部食べたいー

末っ子で二人の姉がいるKは、幼少期からフルーチェが好きでたまらなかったものの、家庭の力関係上、全く歯が立たない二人の姉がいるお蔭で、姉たちが大部分を食べ尽くしてしまい、自分の分はいつも少量しか残されず、悔しかった、悲しかった、いつか心ゆくまで腹いっぱいフルーチェを、そう切望していたそうです。

出典著者撮影

やっと願いが叶う、畳の部屋で胡坐をかき、Kはボウルにフルーチェを投入し、牛乳と混ぜます。リズミカルに匙を動かすKに満面の笑顔が広がっています。お前にも少しやろうか、気をつかって言ってくれますが折角の夢なら、と辞退します。幸せそうにむしゃむしゃフルーチェを頬張るKですが、途中で手を止めてしまいます。

「…これって、少しだけ食べるのがおいしいんかな」

悲しい声でKは呟きました。やっぱり全部は食べきれない、やる、僕たちは二人無言でフルーチェを片付けたのでした。

流血

出典著者撮影

いつものように深夜までKの部屋でだべっていると、突然Kは大声を発しました。

「ああー。パイの実、食いてえ!」

もう我慢できねえ、そう言い残すや否や、Kは部屋を飛び出し、自転車に跨ってコンビニへ向かいました。僕は仕方なく、松本人志のコントライブを収録したビデオを観ながら部屋の主の帰宅を待ちました。

一向にKは帰ってきません。コンビニまでは自転車なら片道数分しか掛からない近場なのです。30分が過ぎ、さすがに心配になってきて携帯に電話しようか迷っていると、やっとKが帰還しました。

コンビニの白いポリ袋を片手にぶら下げたKは、顔から流血していました。

「…コケた」

コンビニまでショートカットするために、マクドナルドの駐車場を斜めに通過している際、夜中で真っ暗で足元が見えず、車止めに激突し、自転車ごと宙に舞い、そのままアスファルトに叩きつけられた、痛くて動けず、また精神的に絶望してしまい、しばらく夜空を見上げていた、で起き上がって初志貫徹、なんとかパイの実は購入した、そういう状況を血まみれの顔で報告されます。僕は一体何と言ったらいいか分かりません。一応、血をすすいで消毒するよう伝え、自分の部屋へカットバンを取りに行きます。

甘いパイの実はきっと血と鉄が混じった味がしたことでしょう。

のぞき

下宿の狭い庭を挟んだ裏側は、二階建ての民家と接していました。

民家の二階には女子中学生の部屋があるらしく、そこには週末になると午前中から数名の女子中学生が集まり、お喋りに興じる声がやかましい、会話の内容は丸聞こえ、この前は地元福岡出身の歌手「浜崎あゆみ」がいかに素晴らしいかについて延々聞かされて参った、奴らは「あゆ」を神として信奉している、女子中学生がかわるがわる「あゆ」を絶賛し続けて止まらない、二階の角部屋のKは嘆いていました。

その日曜日。

Kはシャワーを浴びて、そのまま全裸で長寿番組「笑点」を観ていました。日本人男性の典型的な過ごし方、牧歌的で穏やかな日曜日の夕方です。

すると、窓を全開に開け放ったベランダの方角から、何か鋭い視線が突き刺さっているのにKは気付きました。

カーテンの隙間から女子中学生が、じっとKを見つめていました。ガンつける、という表現がぴったり来る視線でした。はっと目が合います。

シャッ!

風切音がしそうな凄い勢いでカーテンが閉められます。やべえ、おれ全裸だったわ決まり悪そうにKは僕に言ったのです。お笑いを愛する者なら「笑点」を全裸で観るのは御法度だ、それだけ注意しました。

それから

社交的で明るく、活発で友達も多かったKには程なく彼女が出来て、遊ぶ機会が一気に減ってなんとなく疎遠になってしまい、僕は下宿を引き払って、学部が違ったKとは結局、卒業するまでキャンパス内で顔を合わせることは一度も無く、そのまま連絡を取ることもお互いにありませんでした。

今頃、Kはどうしてるんだろうか、元気に暮らしているんだろうか、フルーチェを平らげパイの実をつまみ、感傷に耽ってしまう4月上旬の春です。

この記事を書いたユーザー

久留米の爪切り このユーザーの他の記事を見る

男は久留米という砂漠の中の一粒の砂であり、クルマ、金、女に縁がないライター志望の孤独で吝嗇な三十路だった…http://ameblo.jp/kt660cc http://tabelog.com/rvwr/002224433/

権利侵害申告はこちら