われらは絶えることなく神を賛美し、
とこしえに、御名に感謝をささげます。詩編44:9

詩編と賛歌と霊的な歌により、
  感謝して、
   心から神をほめたたえなさい。コロサイ書3:16

        (ローズンゲン日々の聖句4/7;木)

 天の神、主を私の王とする者は、主のお名前によって、主と一つになっている者として、この方のお心と一つ心になって生きるのだそうですね。
自分の弓も頼りにならず、自分の剣でも自分を救うことができないこと、自分の理性の判断はずれてしまっていることを知っているので。

 「父である神」、「御子である神」、「聖である霊」と呼ばれる方が、それぞれ、全知であり、全能であり、永遠・不変の方でありながら、自分を主張するのでなく、愛し合い、尊敬し合っていて、自分の自由意思において、自発的に、「父」である方は、「御子」である方、「聖である霊」と呼ばれる方に御自身のすべてを明らかにしておられ、「御子」である方、「聖である霊」と呼ばれる方は、「父」である方の御思いが成ることだけを願って、「父」である方の御思いのとおりに生きようとしていらっしゃる、愛において、自由意思において、自発的に一つになっていらっしゃる方なのだそうです(ヨハネ8:28、10:30、12:49~50、14:10、14:26、16:13~15)。 そして、天の神、主は、愛と尊敬によって、自由意思で、自発的に、その一つの中に加わるものをと願われて、私たち人間を創造されたのだそうです(創世記1:26)。 天の神、主が、その創造のみわざをご覧になったとき、「それは非常に良かった」(創世記1:31)のだそうです。 けれども、今、私たちの実情を見るとき、私たちは天の神、主を知っている者でも、この方と心を一つにしている者でもなく、むしろ、「神なんかいない」として、あるいは、自分の好む神々を作り出して、天の神、主に対抗し、自分が神のように力のあるものになろうとし、全知に近づこうとし、すべてのものの頂点に自分を置こうとし、他のすべてを支配し、良きもののすべてを自分一人で独占しようとする者、また、それとほど遠い自分の現実を見て、自分で自分を赦せない者であることを知ります。 私たち人間は、天の神、主の創造の目的、「われわれのように、われわれと一つになる者を」との願いからから大きく外れ(創世記3:1~21)、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:22)、神と対抗する者となって、今日に至っているのだそうです。 私たち、自分が、そのように創造の目的から「的はずれ」になっている者であることを知り、これを認め、天の神、主が御自身の側で一方的に用意し、恵みのプレゼントとして差し出していてくださるイエスの十字架刑での処刑による贖(あがな)い、救いを受け取るなら、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となっている「生まれたときからの霊」という「私自身」は、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて処刑が終わった者として死亡手続きを済ませていただけるのだそうです。そして、復活し、天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えするなら、この方が、私たち一人一人の心に、私たち一人一人に関わる「父である神」の 御思いを置いてくださるので、この部分において、私たちは「父である神」が思っていらっしゃる思いと同じ思いを思う者としていただき、「父である神」が私たち、一人一人を通してしようと思っていらっしゃることをする者にしていただけるのだそうです(エゼキエル36:25~28、ヨハネ14:12)。それで、私たち、本来、自己主張ばかり強い者なのに、この方によって、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容な思いが心に来て、互いに忍び合い、互いに赦し合い、相手を大切に思う愛の心が来、キリストの平和が心に満ち、感謝の心、「父である神」の御思いを求める心が来て、互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とによって、感謝にあふれて神に向かって歌う者にもしていただけるのだそうです。「聖である霊」と呼ばれる方が心に置いてくださる「父である神」の御思いによって行動していく部分においては、その者がすることは、ことばによると行いによるとを問わず、主イエスがしていることとしてくださり、「父である神」に感謝をささげることにしていただけるのだそうですね。イエスがそうであったように。今日も。

この記事を書いたユーザー

佐知男 このユーザーの他の記事を見る

愛媛県久万高原町の産。仏教大学(社会福祉)、JTJ宣教神学校卒。キリスト教プロテスタントの教会員。

権利侵害申告はこちら

Spotlightのライターなら1記事最大3000円もらえる!日本最大級メディアでライターデビューのチャンス