普段意識することは少ないですが、コミュニケーションというのは、おそらくある種の共通認識に基づいて行われています。そうでなければ、例えば鳥居みゆきさんの「みゆきもタバコやめた」「やめる事にしよう」(※タバコを吸いながら)というのを妙だと感じることはありません(まあ、あの方の場合はそこが面白いんですけど)。これは言うまでもなく、論理学でいうところの、「A」と「否定のA」は同時に成立し得ない(矛盾が導かれる)というルールに基づいています。「あれは赤くて赤くない」なんて矛盾している、みたいな考え方のことです。

 そうした論理関係も然ることながら、情報についても同じようなことが言えるでしょう。またもや鳥居みゆきさんを例にとってみますが、渋谷のマルイ(=商業施設)前で「これマルイですか?」という問いに対して「そんなに丸くない」という答え方は、やはり妙なわけであります(念のため補足しておくと、今現在はマルイでなくモディがあります)。その場の状況応じて文脈は変わりますし、それはもうちょっと幅広く当てはまるんじゃないでしょうか。例えば、マツコ・デラックスさんに性的対象としてどんな女性が好みか聞くのはナンセンスでしかありません。だって、ゲイ(つまり、男性同性愛者)なのだから。でも、それは前提が共有できている場合だからこそ言えることです。マツコさんがゲイとは知らない人にはその説明から始めなければ、先の問い(「性的対象としてどんな女性が好みか」)に答えようがないことは伝えられません。

単純化は正義なのか

 はからずしもゲイに言及することになったので、そのまま少しマイノリティの話をしてみますが、セクシュアルマイノリティやLGBTの議論を巡って、以下のような意見を聞くことがあります。「面倒臭い」と。その手の人の考えでは、どうやら男女二元論や異性愛規範は、いちいち細かい配慮をするのが面倒だから採用されているだけだ(「その上で私は差別とかしてないけどね」「みんなそこまで気にして言ってない」)、ということらしい。

 コミュニケーションの簡略化は必要不可欠です。なんでもかんでも、正確に伝わるように(セクシュアリティやジェンダーだけでなく、性格や生い立ちや抱えた障がいなど)前提をすべて共有することは不可能です。だから、もちろん、なんとなく細かい部分に目を瞑る必要はあって、それ自体は否定されるべきではありません。けれども、たとえばセクシュアリティやジェンダー、人種、病気、障がいなど、面倒臭いで済まされる、簡略化されるべきことなのでしょうか。

入り口に立てないマイノリティたち

 僕個人としては、人として何らかの前提を共有できていない、あるいは共有できないというのは深刻な状況のように思います。前述したようなLGBT、つまり、レズビアン・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーというような類の前提もそうですし、末期ガンであるとか、内臓に障がいを抱えているとか、他にもたくさん色んな人が色んな前提を抱えて生きているでしょう。むろん、全員が全員、わかってもらいたくて各々説明をはじめたとしたら、たぶん時間がいくらあっても足らない。それは事実です。だけれども、それが欠けたら自分ではないとしか言いようがない要素について、人はどこかで前提が共有できなければ、生きられるようにはならない。死んでないとか、息をしているとか、そういう次元の「生きる」ではなく、人として心が呼吸できるような「生きられる」に届かない。

 ここでひとつ、考えてみたいことがあります。例えば、誰かを好きになって、その人と恋人になるという状況を思い描いてみてほしい。これが異性愛者の男の子と女の子であれば、話は簡単です。なんとなく好きだなぁ、相手も自分のこと好きかな、なんて甘酸っぱいやり取りが散々あった後にでもいずれかが告白し、晴れて恋人同士になるというだけのことでしょう(それを実現する難易度についてはノーコメントで)。
 けれども、いわゆるセクシュアルマイノリティではどうでしょうか。色々な人がいますから、最初からカミングアウトしておくタイプもいらっしゃいますが、20人に1人と言われるマイノリティにおいて、必ずしも多数派を占めはしないだろうと感じています(特に当事者以外の人は、知人のマイノリティとマジョリティの比率を考えてみてほしい)。つまるところ、それとなく仲良くなって、なんとなく良い雰囲気になったとしても、それが何を意味しているのかマイノリティにとっては釈然としないことがあるのではないでしょうか。ゲイを例に取ってみますが、とっても仲良くなった男友達がいたとしても、そいつがどういうニュアンスで仲良くしてくれているのか、期待していいのかよくないのかわからないということは起こり得るし、確認もなかなかに難しい。
 「普通」の男女であれば、わざわざ相手のジェンダーなりセクシュアリティを確かめる必要はないでしょう。しかしながら、前提が共有できていないと、人間関係の入り口にも立てないことがある。初対面で突然ジェンダーやセクシュアリティといった個人的な事情を暴露するのも気が引けるし、かといって、そこはかとなく良い雰囲気が漂うなか、そもそも自分はこれこれこういう人間なんですけどね、なんて話をするのも気が引ける。まあ、最終的に傷付くのは言わない自分なんだけど(と、まるで僕自身の話みたいになってしまったが、そういうことではない)。

スタートダッシュへ

 この世界にはいろいろな事情を抱えた人がいるし、その人たち全員が全員、その事情にアイデンティティを求めているわけではないと思います。ただ、そうはいっても完全に無視をして、なかったことにして生きることもできない。例えば僕は日本人ですけれども、自分はどこの国の人間であろうとも自分だろうと思う一方、その要素を完璧に消し去ることもできないと考えています。まあ、現に自分は日本人であるという自意識のもと日本語で考えて日本語で文章を打っていますから、(日本生まれで日本育ちの)日本人という前提を抜きにするのは不可能なんですが。どんなに綺麗事を言ったって、付いて回ることはあります。
 その付いて回ることを、面倒臭いとかなんとか、そんな理由で切り捨てて良いとは、僕は思いません。どっちみち、一度に500人と会話しなきゃいけない、なんてシチュエーションはないわけですから(たぶん)、目の前にいる数人に気を配ってみるとか、あるいは眼前の数十人全員に対して気を配れないにしても「もしかしたら前提の違う人がいるかもな」と思ってみたり(ちょろっと補足や言及をしてみたり)、してみてもいいんじゃないかと思っています。

 「生きられる」という言葉のニュアンスは、伝わる人には伝わるかもしれませんし、伝わらない人には伝わらないのかもしれません。だけど、この世にいくらかの「生きられない」人が存在していて、「普通」のなかを生き抜くだけで息も絶え絶えなのは事実でしょう。権利を寄越せって言ってるんじゃありませんよ。そうではなくて、ほんの少しの想像力を働かせてみても悪くはないんじゃないか。そう思うだけです(かく言う自分も、ですが笑)。

(画像:筆者撮影)

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