芸術家とは、創造し続けることである。

その感性ゆえに、導く光がある。
感性がずれてくると、その光は失われる。
そこにおいて、ドラッグを使わざるを得ないそういう状況もあるのかもしれない。



自身、クリエイターとしてのその泉源は、衰えるところか、その刺激のなさでも、何とか維持してきた。


1の刺激で1しか創造できない人

1の刺激で100創造できる人

その差とは、悩み続け、もがき続け、その葛藤を繰り返しているから、その泉源が続いていく。


1の刺激で1あたりの創造力を、維持しつづける在り方か?

もしくは1から多くのものを創るのか?

もしくはゼロから1を創りだすか?



その中で、どれを使うようになろうか?

それが、その人の、芸術としての在り方になる。

自身は、そこに対して、すべてに感謝はもちろん、できないし、するべきでないとは思うものの

本当の愛で、適材的に受けた愛には、感謝しているつもりである。

そういう数々の愛の中で、どれが本物か?と

そこに対して、意味を見出すし、そうでなければ、死ぬ間際にそれをすべての愛と見なす、そういう在り方しか求めない。



それが、「社会に生きる」ということであると思うし、そのはざまでヘッジをかけるズルさに対してとも思う。



刺激が1しかない中でもがいてきた。

それよりも、刺激がゼロでも、もがき続けてきた。



その前のめりの想いが、今のクリエイトの土台なんだと思ってます。

その感性の高級さの中で、刺激ゼロの状態、その刺激のなさは、「死んでいた」と。

要するに、1と1億の間を交差してた、そのギャップの大きさにて

そのふり幅の、ジェット気流は激しい。

その中で、毎日、人の数倍もの刺激と痛みと、余人ではなくなってきた

そういう人生が幸せなのか?そうでないのか?


わからないけれど、自身、高みを目指そうとするその思いのたけはいつまで続けるべきか?と日々問うています。

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