霊を見た(という)人は昔から多いのですが、肉親や近親の死を受け入れられず、悲しみに暮れていると、たまに死者の残影を垣間見るというものです。平安の昔からよく知られているのは、菅原道真の怨霊、平将門の怨念などで、たたりという語源になったものです。

久しく会っていない知己の姿を夢に見て不審に思っていると、その訃報が届いた、など世界のあちこちにある話です。また夜道を歩いていたり車で走っているとひと気のない通りの先に女性の姿を見る、旅先の宿でふと目覚めると枕辺に誰か座っていた、という類の話も多く百物語風で怖い話になります。

霊を見るという行為は必ず脳を経由するので脳の作為が入りやすいのは否めません。霊以外のものでも、見たいという欲求に脳が対応することはよく知られています。空腹時に食べ物を幻視する、砂漠で水を求めてさまようとオアシスを視る、などはよく聞く話です。幻視は押しなべてリアルで思わず手が出る、といいますから脳の作為とはいえ信じる人も多いでしょう。

霊魂を見た話は物語化され過ぎて、かえって真実を疑うものが多いのはやむを得ません。しかし、霊は実在する(と主張し)見た人も見る事が出来る人も現実にいるのだ、という人は昔からいるのです。

作家で評論家の立花隆さんが雑誌に書かれていたものですが、「うちのカミサンは普通、人の耳には聞こえない超音波を耳だけで聞き取れるようだ。主要道路の要所には交通量測定装置があるのだが、カミサンはそこを通りかかると急にウルサい音がする」というのだそうです。この装置は人の聴覚範囲外の超音波を出しているのだそうですが、それが(カミさん)には聞こえて喧騒さいというのだそうです。そのような(聴覚範囲外の音)を聞き取る人は稀ではなく、優れた音楽家などにみかける絶対音感がある人などで、目立たないながら、そのような人はかなりいるということです。「そんなわけで、同様に視覚についても、可視光線以外の領域まで見える人がいても不思議ではないかもしれない、オーラを見るという人はその類だろう」と立花さんは述べています。

生きている人の霊(変な表現だが)はオーラだろうと思われています。オーラが死後にも残存するのはよく知られている(?)ことだそうで、死後に現れる残像現象などがその類となるそうです。遠地で不慮の死を遂げた近親者の姿を、その時間に一瞬見たという話はよく耳にします。嘘の話でなければ、死後の残影はありうるのかも知れません。

立花さんも容認しているのは、人に限らず生命体には生命エネルギィーがあり、それが発する電磁気がオーラで、器具を使って測定も出来るということです。実在は人の目に見えるものの方がむしろ少ないので、見えないはずのもの(不可視範囲)が見える人という人達がいても疑うことはできない、そうなのです。

オーラの形状は今も昔も、外国の情報でもほぼ同じで、人型を包む楕円で繭に似てケバがあり、淡く光り、多くは暖色で、寒色もある、膨らみや弾性もあるというもの、生命力の強弱を感じさせるものと表現されています。

霊魂も物質で素粒子のひとつ、ニュートリノのようなもの、と言うアメリカの研究者もいるそうです。ニュートリノはノーベル賞受賞者の小柴昌俊さんが世界で初めて巨大地下貯水槽内観測でその存在を確認した素粒子で質量があるので物質だそうです。微小で、原子顕微鏡でも見えず、また、すべての物体を通り抜けるため感知も捕捉も出来ない幽霊のような素粒子と言われているそうです。

霊が見えない人は(勿論)大多数ですが、もっと多くの人がその存在を視覚や聴覚ではなく、触覚で知ることが出来るのではないか、という人がいます。神奈川県の樹齢七百年の樹木に囲まれた古刹の僧侶です。(老僧ではありません)

人は案外、そうとは知らずに幽霊に触れた経験を持っている、とその人は言うのです。その寺では山門から奥の院への長い石段があり、それを上る参拝者も多く、その中に、たまに、途中で足を止めて蹲るものがあるそうです。

急に足が重くなって動けなくなった、と訴えるそうです。それは概ね、霊の憑依で、それも複数霊のため重さを感じた結果とのことです。また、背中にシャツが張り付いたような感触を訴える人もいるそうで、(何かに)触られた、目に見えない何かと、明らかな接触感を身振り手振りで訴える人も少なくないそうです。

霊が人に害を及ぼすことはないので、寺では特に注意することもないと言っていますが、僧達はあきらかに幽霊の存在を日常的に認めているという風で、未成仏霊はいつくしめば馴染むもの、などと涼しい顔(あるいは生暖かい顔)で言っていました。

幽霊、有象と無象・問答

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まじ 東風 このユーザーの他の記事を見る

八ヶ岳南麓に隠棲。世事にまだ興味深々。

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