正直な話

サラリーマンというそのごく一般的な労働についての辛さはよく知っています。

そして、サラリーを得て、周りの人のために、生きる尊さもよく知っています。

しかし、やりたくないことも拒めず、その組織の歯車になって生きていくその在り方は、誰もが「嫌だなー」と思って生きていると思います。



自身は、感性が豊かな故、死んだ感性の中では、頭に入らない。もしくは、正義感と無駄に巨視観がある中、そのおかしさにて、バカバカしくて、それについて異を唱え、喧嘩して、その中で組織に入っていく意味を失ってきました。


無駄な争いを冒すなら、無駄な労力になると

自身、その行動をしなければいけないとわかっていても、足が進みません。



正直なところ、その局所的なところで一対一で問われる中で、巨視的な部分は、組織に握られる状況。



やはり、あほらしいと喧嘩するに決まっています。もしくは苦虫咥えながら、耐える一文字。

その中で、サラリーマンとは、我慢に我慢を続け、いつの間にか感性も失っていきます。

もしくは、感性の鈍い人なら、そういう状況でも耐えられるそういう素養があるのでしょうか?


感性の鋭い人は、鈍いものを見ると、すごく気持ち悪くなります。

見てられない、聞いていられないと・・・・・

自身は、一流のものをずっと見てきて、聞いてきて・・・・

そういう点は人より、少なからず強いです。


そこでどういう考察ができるかというと、サラリーマンというタイプは、今の現状だと、感性が鈍いので、「ばかばかしいことができる」

ニートは、感性が豊かで、美しいもの、面白いものに食いついていき、その上記ができない。ゆえにお金が稼げない。

そこで、先ほどの上記タイプが、下記タイプに嫉妬して、お金を渡さない!

という状況もあり得るでしょう。

しかし、感性が豊かなことは、必要良でもありますし

ただ、その感性の豊かさを、社会の中で、どういうポジションでありえるか?

ということを考えたとき、ひとつにも一概には言えないでしょう。



その中で、どう現実的に目を向けた中で、その感性を取り入れるべきか?と

そういうことが問われるべきです。

ただ、その現実的ということを追及し続けても、バカの壁にも入りますし、ただ夢見がちでも違います。



そういうところが、ニュアンス的ですが、今求めるべく着地地点のような気もします。

もちろん、分野分野で、違いますし、それぞれが、自身のポジションを客観的に見れる視点があるべきですが。



社会とは、どうあるべきでしょうか?

それがこういうことについての、本質だと思っています。

自身は、男と女が確かに愛せれて、その子孫のために、道を続けていくそういうことを思いながら、勤しむ。

そういうことを普通に思っています。

もちろん、自身の幸せを追求すべきこともあるでしょうし、逆に尽くさないといけないこともあるとも思います。

そこで、時代の中、どこまで自由を手に入れられて、逆に、どこまで自由を制限しなければいけないのか?

そんなことを今未来へ向けて、考えています。

もちろん、夢想家のようですが、そういう問いをしている毎日です。

その中で、最近、労働時間を短縮して、その時間で育児をしたり、空いた時間で感性を保つ、そういう流れもあります。





正しいというクオリティーではなく、確かなクオリティーとは?

そういう問いの中で、模索することは、結局は自由をルールづけしているのだと思います。






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