峰倉かずやの描く『WILD ADAPTER』の最新刊が発売されから、少し時間が経った。6巻が出たのちに7巻が出るまで、多少なりと間があいているために、待ち遠しかった方も多いのではないだろうか。
 今回は、漫画の作品論というわけでは断じてなく、『WILD ADAPTER』7巻の展開を契機に、人と人との関係性や、何かを積み重ねていくことについて考えるのが目的である。しかるに、漫画の内容に踏み込みもするので、いわゆるネタバレにはご注意いただきたい。

絆か、しがらみか

久保田「そう言えば、お前この間『俺達ってどんな関係だ?』って聞いたじゃない」「お前は何がいい?『恋人』?」

時任「ばっ…」

久保田「ーーでなければ、『友人』?『家族』『同居人』『相棒』…正確に言えば『赤の他人』かもしれない」

久保田「ーーなんにだってなれるよ」(年齢も国籍も、性別も何もいらない)「世間が勝手にどうカテゴライズしようと、俺達はこの世で俺とお前だけの、『お前と俺』でいい」

時任「………くさッ」「久保ちゃんクッサーー!!」

久保田「……地味に傷つくんですけど、その言い方…」

出典峰倉かずや『WILD ADAPTER』(一迅社)07巻

※記事にする都合上、一部読点を加えています。

 この漫画の主人公である久保田誠人と時任稔の間で、以上のような会話がある。

 さあ、この「クッサ」い関係。みなさんはどう見るのだろうか。はっきりしてくれと思う方もいるかもしれないし、そうでなくとも、日常のなかで「(この世で俺とお前だけの)お前と俺」を経験することはあまりないのかもしれない。そもそも、カテゴライズしない関係など可能なのだろうか、というところに話が行き着く可能性も否定できまい。

 ところで、この引用以上の説明は不要だろうと思うが、「恋人」でも「友人」でも「家族」でも何にでもなれて、その上で、何かになる(例えば「友人」同士であるとする)必要がないというのは、すなわち、カテゴライズをしないということである。確固たる「答え」のようなものがない、ふわふわした状態と言っても差し支えないだろう。この話を読んだとき、僕はバトラーのジェンダー論を思い出した。

ふたしかさ

ジェンダーは真実でもなければ、偽物でもない。また本物でもなければ、見せかけでもない。起源でもなければ、派生物でもない。だがそのような属性の確かな担い手とみなされているジェンダーは、完全に、根本的に不確かなものとみなしうるのである。

出典ジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル フェミニズムとアイデンティティの攪乱』(青土社)p.248

 バトラーによれば、ジェンダーは「反復されるパフォーマンス」としての「行為」である。真面目にバトラーの主張を理解しようとすると相当なレベルの背景知識と頭脳とを要求されるであろうから、不本意ながら、極めて単純化した、僕なりの理解(と呼べるかもわからない何か)で書いてみようと思うのだが(なので、良くも悪くもバトラーの考え方が気になった方はご自身でお調べいただいたほうが良いと思うのだが)、ジェンダーが行為であるというのはつまり、揺らぎなく確かな男性性や女性性が最初から備わっているのではなく、社会的意味を纏った行為を遂行することであると考えられる。ジェンダーは、行為遂行的に構築される。で、その行為遂行的という考え方を人間関係に持ってこれないのかな、というのが僕の考えていること。

構築するということ

 行為遂行的とか言うとなんだかお堅い感じがしてしまうけれども、べつにそれ自体はたいしたことではない(というか、この場でこの表現にこだわる必要はない)。改めて『WILD ADAPTER』の話に戻るが、誰かと関係性を構築するときに、自分たちを何か既存の枠組みで語る必要はあるのだろうか。便宜上、「友人」と表現したり「同居人」と表現することはあるし、それは「それなりに答えておけばいい」(『WILD ADAPTER』より引用)話である。ただ、本当に大切な相手との、本当に大切な関係を、オンリーワンなんてクサい表現はしないまでも、それっぽい「正解」に留めておくのが、果たしてどういうことなのか、考えてみるのは悪い気がしない。

 そもそも、例えば「友人」が、確固たるものであるのかという問いを立てるのなら、たぶんそれはあり得ない。あなたの友人がいつかあなたを裏切ると言っているわけではない。そうではなくて、「友人」という、なにか普遍的な定義付けをされた関係性はあり得ないと言っている。
 考えてもみれば当たり前で、「友人」を名乗るには、相互に何かをしなければならない。というのは、全くお互いが何もしなければ、関わることをしなければ、「友人」とは思わないだろうという状況を指しているのである。だから、あなたが誰かと「友人」であるにはまず関わる必要があるし、相手も何らかの形でそれに応える必要がある。これは他の関係性でも同じだろう。話しかけて無視され続けている場合には、関係を築いているとは到底言い難いし(病的なほどの妄想が伴うなら、片方の脳内ではどうだかわからないが)、相互に働きかけがなければ、そこに関係はない。
 であるのなら、関係とはつくっていくものである。当然のことではあるのだが、誰かを「友達」だとか「恋人」であると認識すると忘れがちにならないだろうか。自分の言動が目の前にあるこの関係をつくっていっているという自覚を持って、丁寧に積み重ねることができている人のほうが少ない気がしてしまう。

 これがつまり、行為遂行的に関係を構築するという話なのだが、その究極的な形が、カテゴライズしない生き方なのだろう。「正解」を決めておかず、つくっていく、積み重ねていく生き方。むろんそれは関係性にも及ぶから、「(この世で俺とお前だけの)お前と俺」としか言い得ないような関係もいつか、立ち現れるのかもしれない。

この記事を書いたユーザー

東雲 このユーザーの他の記事を見る

24年くらいしか生きたことのない若造です。

得意ジャンル
  • 社会問題
  • 国内旅行
  • カルチャー
  • コラム

権利侵害申告はこちら

Spotlightのライターなら1記事最大3000円もらえる!日本最大級メディアでライターデビューのチャンス