インターネットを始めとして、現代社会に生きる私たちは科学技術の恩恵を当たり前のように受けています。

しかし現在、学問としての科学はあまりにも高度に細分化されており、一般の人々にとってはとても分かりづらいものとなっています。

ですが、粋を極める科学の世界を目の当たりにして、「なんだかよく分からないから」「自分は文系だから」と拒絶してしまうのは、あまりにももったいないのではないでしょうか。

そこでオススメするのは、まずは最初の一歩として、科学的な「思考法」を日常の中に採り入れてみるということです。

事実と意見は違う

ところで、現代ほど種々雑多な「意見」が世間に氾濫している時代はないと思います。例えば、「女性は家庭に入るべき」という意見、あるいは「いや、女性は自立して働くべき」といった意見があります。

これらはあくまで「意見」、すなわち個人の主観であるため、どこまで行っても水掛け論になってしまい、正解がありません。実際は専業主婦になるのも、独身で働き続けるのも、現行では個人の価値観および判断に委ねられている、という現実(事実)が存在するのみなのです。

具体例を挙げましょう。ここに1冊の本があるとします。「これは森鴎外が著した『舞姫』です」という報告は、その本の表紙に『舞姫』と「森鴎外」の文字が記されているのであれば、紛れもない「事実」と言えます。

ですが、「この『舞姫』は名作であり、鴎外の代表作の一つです」という報告は、たちまち「意見」であり主観となってしまうのです。もちろん、『舞姫』が名作であり、森鴎外の代表作であるという「意見」には、大多数の人々が同意することと思います。ですが、だからといってイコール「事実」にはなり得ないのです。「『舞姫』は名作であり、鴎外の代表作の一つであると多くの人々が『考えている』」という「事実」を提示できるのみにとどまるのです。この意見は、一般に「評価」と呼ばれる種類のものです。

そして、これらの「事実」と「意見」を明確に区別することは、科学的なレポートや論文を書く上で必須であるとされています。




「意見」は気にする必要性がない

厄介なことに、自身の「意見」が主観に満ちたものであることに気づかず、さももっともらしい「事実」であるかのように吹聴する人々がいます。ですがそれは前述したとおり、おおよそ科学する態度とは程遠いものなのです。

もちろん、真摯な意見に時として耳を傾けてみるのも必要なことかもしれません。ですが、あまりにも意見を聞きすぎるあまり、それらに振り回されてしまうのも考えものです(これは私の『意見』です)。

世間や他人の意見が気になって仕方がないときは、この「科学的思考法」を思い出してみましょう。「事実」は何者の意見にも染まらず、ただ厳然としてそこに存在するのみです。その「事実」をどう判断し、どのような「意見」を持つかは、あなたの自由なのです。

そう考えると、晴れやかな気分になり、心が軽くなるのではないでしょうか。

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水飼理人 このユーザーの他の記事を見る

東京在住の普通の会社員。マンガオタクでもある。心理学・哲学・認知科学・行動科学に関心がある。

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