金持ちとうりゃんせ・貧乏とうりゃんせ

この世の中には、金持ちとうりゃんせ、貧乏とうりゃんせ、なるものがあるとしましょう。
   
とうりゃんせとは、行きは善い善い、帰りは恐い、怖いながらもとうりゃんせとかいいますね。
          
あの浦島太郎の伝説も、行きは助けたカメに乗せられて悠々と誉められに龍宮城へ行くことができましたね。しかし、帰りは何とも味気ない、ただ怖い結果が待っていたのでした。

苦労は買ってでも・・?

さて、苦労は買ってでもしなさいと言いますが、何も苦労するだけが人生の最終目的であるわけなく、苦労自体に価値があるはずもないですね。その意味は、最初に苦労を投資しておくことによって、最終的にはいずれ、楽をできる薬を貰い易くなるような仕組みが目的にあるためです。
           
よって、薬とは何かと言えば、例えばそれはお金だとしますと、お金という薬を得ることが最終目的なら、その為にわざわざ苦労という症状を起こさせることで治療薬を用意しているというのはまるで人を馬鹿にしたような話に思え、あきれてしまいますね。
実はそのあきれる状態が有の症状だと覚えてください。
       
そして、その有の症状が貧乏とうりゃんせに当てはまるのであります。
ちょっと怖いですね・・。
ところで、金持ちとうりゃんせも貧乏とうりゃんせも、即ち、苦労しても苦労しなくても、どちらも同じくその後の結果は恐いことになっていくというのです。

苦労しなくても、約束さえ守れば、楽をして収入を得れる

それでは、金持ちとうりゃんせとは何か?と言えば、例えば浦島太郎が玉手箱という価値ある薬をお礼に貰ったとしてもその帰り道には恐いことが待っていたというシナリオの謎の事です。
これは一体全体どうしたら良いことか?・・浦島太郎の続編を誰もが欲しいと望むところですが、結論はこれは浦島太郎の定めの人生だったという以外ありません。
あなたは浦島太郎を英雄な尊い人生だったとして供養しますか・・?
     
ところで、浦島太郎は浜辺でカメをいじめていた子供たちにはお金を出してしまいましたが、その恩恵か、乙姫様から御馳走や踊りをもてなされ、その上に無料で価値ある玉手箱までを貰えたのです。
つまり、浦島太郎はカメを助けただけで、それまでのお金を使わなければ何も手に入れられなかった状態からお金を必要とせず何でも好きなものが手に入る状態へ知らずと変化していたのですよね。
     
これこそが、一生楽をして収入を得れるに等しい、無の状態と言えるのではないでしょうか?
ところがです!
浦島太郎はその素晴らしい栄光の特典には、なんと不思議な強いオファーが付いていたことを忘れてしまったのです!
乙姫様は龍宮でも最も価値ある宝物である玉手箱を渡す時、重要なオファーを浦島太郎へ付しました。それは、玉手箱の中身を明けないままに持っていればまたいつでも無料で龍宮城へ遊びに来れるということでした。つまり、玉手箱をどんなことがあっても決して中を明けてはならないという約束条件は、言い直せば必ず近いうちに再び龍宮へ来なければならないという厳しい誓約に他ならなかったのです。

病院や薬局へは何度か通わなければならない!

乙姫様にしてみれば、海の底にも龍宮城が存在していて浦島太郎が一生涯掛けても味わえそうもないほどの娯楽でもてなし、決してこの世の出来事とは思えない位に奇妙な境遇を与えたことに対し、必ず浦島太郎自身でこれが本当に現実なのかと疑いたくなるほど脅威と警戒を持って約束通りに対応するはずと信じていた思います。
ところがどうでしょう?浦島太郎はただ冷静淡々としていて、そのまま島へ帰ってから、初めて自分自身では到底計り知れないことになっている島の事態に驚いたのです。そして、大そう頭の優れていた浦島は過ぎ去ってしまった歳月の事実を悟るに至り、遂に乙姫様の言葉すら忘れてふたを開けてしまったのです。
      
さて、お解りですか?
     
浦島太郎はあまりに日常が空虚でつまらないことばかりで高度なノイローゼ障害などの病を起こしていたのでしょうか?
    
それを心配した乙姫様は玉手箱という様々な薬の入った救急箱を用意してくれたとすれば、それを勝手にあけて自分の判断だけで飲んではいけない、しっかりどれをどれだけ服用するかを注意深くその都度、症状に応じて聞きに来なければならないとしたと思えるのです。
   
そうでなければ、浦島太郎が自分自身の力で中身の薬がどういうものであるかを知るまでには、計り知れないほど長い歳月を必要とすることを知っていたからでしょう。
とにかく、病気な時には取り返しがつかないまでの大事にこそ至らぬよう、肝に銘じて念入りに警戒しなければならないということです。

頭痛・肩こり・腰痛への薬は、お経(有酸素呼吸法)

というわけで、本題の頭痛・肩こり・腰痛への対応を説明することにしましょう。

それらの痛みが起きるのは、だいたいは歳をとることで様々な社会経験的な苦労を積み重ねてきた後に起きやすくなってきますね。
それらはある意味では人生の様々な苦労投資が済んで気が緩むころ起きてくるのです。
       
薬というものは、病や痛みがあるからこそその効き目が実感できますね。つまり、苦しくなったり痛くなったりして体が強張るようになってからすがるのが薬の効き目ですね。しかし、仏様の教えではこの世の生き物はすべてが元々病気を持って生まれてきているのにただ気付かずにいるだけだと説いています。
             
ですから、病や痛みを感じる前から薬は常に服用していなければならないのです。
その薬がお経なのであって、仏様の教えとは薬の飲み方のことなのです。
子供は風の子で風邪にひきにくいといいますが、子供は将来大人になることに対し無意識にも警戒心を持ち、大人になれば辛い苦労が必ず有るとわかっています。そのためにこれから訪れるだろう苦労の壁に気が張って常に緊張しているのです。

実はその常に来たるべき未来予測へ緊張して身を張っているのが常の薬なのです。
社会経験に慣れるにつれ、次第に体の痛みとは余計な力の蓄積だと考えるようになるため、常に体の力を抜いてリラックスして過ごすのが何より体に負担がないことだと考えがちです。ところが、それが思いによらず逆な理解なのです。
仏様とはそのような逆と思える智恵を持ってますが、私たちが仏様へ向かってお参りする時、緊張して身をこわばらせて対面しているのはお坊さんだけだと思いがちで、一般の人たちは皆、仏様は何でも聞きいれてくれるから心も体も解きほぐして接するようにと思わされています。
      
そのように仏様が見ていてくれているから、お経までは読む必要はない、つまり勉強はもう何もしなくて良いと思うことから気が緩み出し、薬が極端に不足した状態になって、腑抜け状態であることが、元々ある病や痛みが表面化してくるという原因なのです。
ですから、子供の時のように将来何が起きるかわからない精神に於て気を張って過ごすことが常に必要なのです。
痛み解決の答えは、お経を読むことであり、それは深い海底へ素潜りするイメージで念を集中し、体に思いきり力を目一杯入れて、声を出して読むことが本来の薬の得方です。
なお、痛い所へこそ力を余計目に入れるようにするのが良いでしょう。
          
このように、お経を読むには実はちょっとしたコツがあるのです。
そのコツとお経のどこがツボなのかについてはまたいずれお話することにしましょう。

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私は、まちづくりをもし専業にできたら素敵だと思っています。
世の中には、国造り、会社づくり、モノづくり、人づくり、お金づくり・・・さまざまな「つくり」がありますね。
その中でも、まちづくりとはわざわざ心掛けて作ろうとしなくとも、放っておけば出来上がるかのような最も漠然と掴みどころのないものに思えます。
しかし今あちこちで、何かとまちづくりが大切であると、なぜ呼びかけが始まりだしているのでしょう?
 
私は、まちづくりの動機の動機と言えば、ただのきっかけだけがカギを握っていると思います。
そして、まちづくりとは案外、国造りよりもっと大きな心がけを必要とするのではないかとも思えています。
それは、誰もが最も身近に感じ得る共通の課題意識であることである共に、一体まちづくりをどうすべきであるかは誰にも直接にはその責任や方法を知り難いことだからだと思います。
いわゆる、自分に直接降り掛からなければどうでも良いことこそが一番複雑で難しい問題であると言えるでしょうね。
ですから、その何か偶然のきっかけが必要なのです。
そのきっかけについて、関心がある人たちで話し合い、実行していけることが本業にすることができれば、私はきっと最高の喜びに違いないと思っています。

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