私たちは、生まれたときから、何かを見たり、知ったりすることに、喜びを感じる傾向がある。赤ん坊を見ていると、まわりからすべてを吸収しようとしているのがよく分かる。知識を獲得することが、人間本来の楽しみや喜びであるとしたら、勉強そのものがすでに喜びではないか。学ぶことは、それ自体、人間の幸福とつながっていることになる。

勉強は、幸福な人生とは何かという問いに答えるものであるとともに、学ぶことが、幸福を追いかけることにもなる。
知識を得ることには、発見する楽しみがある。日々新た、と言う。学び続ければ、必ずそうなるはずである。

しかし、現実は、幸福な人生への片道きっぷとして、学問は考えられているのではないか。その極端な例を、受験勉強に見ることができる。受験勉強は、ある一定期間、ある範囲の「学問」をすることで、教科の問題解決能力をつけるのが目的である。
簡単に言えば、競争試験に勝ち抜く力をつけることである。
試験は悪い風習ではない。むしろ、切羽詰まった目的がないと、人間は勉強しないのが普通である。入学試験のために、集中して勉強する経験は、なかなかに結構といえるだろう。

なぜ、それほど入学試験に受かりたいかといえば、その学校に入りたいからである。なぜ、その学校かといえば、人によって理由は様々だろう。校風が好きだと か、尊敬する先生がいるとか、あるいは、中学や高校なら有名大学に入りやすいとか、卒業生に政界や経済界の実力者がいるから、とかであろう。または、司法 試験や、外交官試験の合格率が高い大学、医者になるためにその学部を選ぶなどであろう。それらは、なんとなく幸福のイメージに近いものがある。特に経済的 な面で将来のことを考えると、幸福への近道のような気がしてくる。
これは、常識人の考え方である。人間の素直な気持ちである。こういう考えを否定することはできない。この考えも認めたうえで、学問の喜びを味わうことはできないものだろうか。

というのも、猛烈な受験勉強の結果、首尾よく目的の学校に入れたものの、勉強をだんだんしなくなり、はなはだしい場合は、ノイローゼになったり、学業不振におちいったりして、それ以後の学問との付き合いがストップする例が多くあるからである。

しかしながら、極端な例を出して、それがほとんどであるかのような言い方は公平とはいえないだろう。多くの場合は、うまくいっているのである。そうでなければ、あんなにも、みながみな、受験勉強に熱 心になるわけがない。

やっぱり勉強は、すればするほど、それなりのご褒美を受け取ることが多いようである。

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退職教員也 暇人である

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