今、私たちはエルサレムへ上って行く。
人の子について預言者が書いたことはみな実現する。ルカ18:31(2/7の週の聖句)

心を尽くして主に信頼し、
 自分の分別には頼らず、
  常に主を覚えてあなたの道を歩け。
 そうすれば、主はあなたの道筋を
   まっすぐにしてくださる。箴言3:5~6

 キリストの言葉:
わたしにつながっていなさい。
 わたしもあなたにつながっている。
ぶどうの枝が、木につながっていなければ、
 自分では実を結ぶことができないように、
  あなたがたも、わたしにつながっていなければ、
   実を結ぶことができない。ヨハネ15:4

        (ローズンゲン日々の聖句2/7;日)

 自分の理性の判断によってことを決めていくのは、ぶどうの枝が、ぶどうの木から離れて、枝だけで生きて行こうとしているようなもののようですね。常に、天の神、主を覚え、主が、「聖である霊」と呼ばれる方によって心に思わせて下さる御思いについて行くなら、ぶどうの木にしっかりとつながっている枝が、木からの樹液を受けて、豊かな実を結ぶように、天の神、主の、私に思っていてくださる御心どおりの実が結んでいくことになり、豊かな、意味のある、充実した人生を送って行くことになるのだそうですね。

 私たち一人一人の心に、一人一人に対する御思いを置いて下さるその方、「聖である霊」と呼ばれる方が私たちに来るためには、私たちの、天の神、主に対するそむきの罪が処分されていなければならないのだそうです。聖である方が、いるべき位置からはずれてしまっている者の所に来るなら、私たちはたちどころに滅びてしまうのだそうですから。

 それで、まず、御子である神と呼ばれる方が、人間イエスとして人の世に来てくださり、私たち人間のすべてのそむきの罪をご自身に引き受けて、私たちに代わって処刑されてくださることがあって、はじめて、「聖である霊」と呼ばれる方が私たちに来てくださっても大丈夫になるのだそうです。

 預言者をとおして、旧約聖書に書かれている、救い主が苦難を受ける預言は、必ず実現しなければならない。それが成らないなら、「聖である霊」と呼ばれる方が、私たちに来ることができないのだそうですから。

 イエスは言われたのですね。「人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります」(ルカ18:32~33)と。
 
 イエスの十字架刑での処刑により、私たちに来てくださる「聖である霊」と呼ばれる方によって私たちの心に置かれる御思いにつながらせていただけるのだそうです。
いよいよ、この新しい週も。



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佐知男 このユーザーの他の記事を見る

愛媛県久万高原町の産。仏教大学(社会福祉)、JTJ宣教神学校卒。キリスト教プロテスタントの教会員。

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