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2015年1月末。後藤健二さんと湯川遥菜さんがISILに拘束された事件から1年。もうずいぶん前の出来事のように思い出します。

日本では「自己責任」という言葉が多く聞かれ、ISILに日本人が狙われる!?という話もあり、言いようもない不安や恐れ、怒りなどの感情が日本中を包んでいたように感じました。

自分が「日本人である」ことを意識させられた出来事でした。

後藤健二さんはクリスチャンで、いつも小型の聖書を持ち歩いていたと言われています。

1年前、いろんな意見が飛び交う中、後藤健二さんと同じ信仰を持つ者としてブログに記事を書きました。

「キリスト教の宣伝をしている」などと言った人もいましたが、私はキリスト教の信仰抜きには後藤さんの行動が正しく理解されないと感じたため、自分のブログに記事を書かせていただきました。

後藤健二さんの信仰~キリスト教の非常識~

時間の経過と共に心が静まり、考えたことは、後藤健二さんが信じていたキリスト教の「信仰」についてです。

前回の記事 で、デヴィ夫人の記事を読んで共感する方がとても多いことに驚き、熱くなってしまいましたが、なぜこんなにも支持されているのか考えてみました。

「常識的な見解」であり正論だから、支持する人が多くて「当たり前」だと思うようになりました。

・危険な地域へは行かない
・奥さんや生まれたばかりのお子さんがいらっしゃるのに・・・
・湯川さんを助けることに、どれほどの意義がある?
など、どれも正論で間違ってはいないと思います。


でも、通常のルールや常識を破る場合が2つあります。

一つは「人命がかかっている時など、緊急を要するとき」です。

救急車、消防車、パトカーなどは、赤信号を突っ走ったり、速度オーバーしても責められません。「緊急車両」として認められているからです。

もう一つは「愛による衝動」です。

ホームに落ちた人を助けようとして線路に飛び込む、幼児を危険から守ろうとして、母親がトラックの前に駆け出すなどです。

これらもルールを破った「非常識な行動」ですが、そこには「~せずにはおれない」気持ちや愛がその行動の原動力となっています。

・・・

思い起こせば、私の父も私が小学生の頃に、遺書を書いて裁判に関わっていました。

兄も妹も小学生だったはずです。母を愛していなかったのではないと思うし、子供がどうでも良かったわけでもないはずです。

でももし、遺書が必要になることがあれば、母は女手ひとつで子供を育てることになり、すべての責任が母の肩に掛かり、私たち子供は父親不在の中で育たなければならなかったはず・・・。

それを父だけでなく、母も受け入れていたことを、今になって思い起こしました。
「愛による衝動」もそうなのですが、このときの父を動かしていたものはおそらく「使命感」だったように思います。

多くの反対もあったようですが、父にとっては「信教の自由を守る」ことは与えられた使命であり、「それでも、せずにはおれない」と判断し、死を覚悟して裁判に臨んだのです。

結果的にすべて守られ、現在は主任牧師を退職しましたが、場合によっては家族の人生も変わってしまったかも知れない出来事です。

出典 http://ameblo.jp

「大それた事をした」とするデヴィ―夫人の記事に「いいね!」が現在2万件、「後藤さんは勇敢なジャーナリスト」とする記事に「いいね!」が2万3千件(更新:2015年2月7日現在)、多少なりとも後藤さんを評価する記事の支持者が上回り、良かったと感じています。

しかし、そもそも後藤さんの信じていた「キリスト教」そのものが人間にとっては「非常識」なのですから、理解されないことがあっても当然だと思うようになりました。

「キリストが自分から私たちの罪を負うために十字架についた」とする「キリスト教」は、人間の常識から考えれば「非常識」そのものなのです。

そして、その「非常識なキリスト教」を信じていた後藤さんの思考や行動には、 聖書の言葉やキリストの姿が原動力となってあったはずです。

「そして自分から十字架の上で、 私たちの罪をその身に負われました。 それは、私たちが 罪を離れ、義のために生きるためです。 キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」( ペテロの手紙第Ⅰ 2章24節

この「キリスト」を信じた信仰者や宣教師の中には、危険を承知で宣教地へ出向いたり、様々な困難に遭い、宣教のために命を落とした人も数多くいます。

これにしても、通常では考えられない「非常識」でしょう。日本では特に「命が一番大事。」と教えられてきたのですから。

しかし、聖書はこのように言います。

「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネの福音書15:13)


「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 」(ヨハネの第一の手紙3:16)


クリスチャンだから、すべての人が聖書の言葉通りに生きられるわけではありません。人それぞれに信仰の量りも違い、それぞれの「使命」があるのです。

でも心の内には、このキリストの「非常識な愛」をはっきりと見ているはずです。


「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 」(ローマ人への手紙5:6~8)

「この人を助ける事に、どれだけの意義があるのか?」と言われてもおかしくない不敬虔な者、罪人は「私自身である」と認識した人がクリスチャンです。

後藤健二さんは、「世界平和を願って活動してきた」と評価される記事も多く見られ、良かったと思います。

しかし、私はむしろ後藤さんはこの聖書を読み、この信仰に生きた人なのだということをお伝えしたいと思います。

「後藤さんが危険や死をもってしても伝えたかったことは何か?」と考えるとき、「世界平和」に焦点を当てる方が多いと思いますが、私自身も他のクリスチャンの方も、多くの情報が飛び交う中で心を騒がせることなく、自分の使命として、キリスト教の信仰についてお伝えしていくことが本分であると思わされています。

出典 http://ameblo.jp

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東京基督教大学神学部神学科卒、webライター1級

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