訪れたチャンス

待っていた。ついに来た。
このタイミングだった。
とうとう僕は総武線の電車の中で、転がる空き缶を捕まえた。

扉が閉まった時に聞こえたカツンという音。
読んでいた本からそちらに目を向けると床に残された倒れた空き缶を見つけた。
恐らく床に立てて置き去りにされた空き缶を誰かが倒してしまったのだろう。

あ、これ。転がり出す。

あの日の僕

あの日の電車の中。
右に左に面白いように転がる空き缶を、ただ「うざったいなあ」、と感じ、誰か拾えばいいのにと思っていた。
その空き缶を誰かが「ガツン」と踏みつぶした。
転がらなくなった空き缶は、そのままそこに放置された。

その時に感じた、とてつもなく嫌な衝撃。
踏みつぶされた缶の絶望的に不可逆な形。
無関心ならまだ良かった。
そうじゃないのに、そこに気付けなかった自分は、
どうしようもなくみっともなくて、
どうしようもなく惨めだった。
それは誰かに対してではなくて、
自分に対してだ。

そうじゃない自分になりたい。
もしまた、こんな風に空き缶が車内を転がることがあったら、
何も考える間もなく、
踏みつぶすことなく、
さっと拾いたい。
それは、誰かのためじゃなく、自分のために。

その翌日から僕はこれを達成するための課題に取り組んだ。
僕が考えた課題はこれだ。

「もし次の機会が来た時に空き缶をすぐに拾うためには、
日頃から空き缶を拾うことが自然に出来るようにすること」

通勤の道すがら、雨の降っていないには空き缶を拾った。
拾う内にそれ以外のゴミにも目がいくようになって、それらも拾うようになった。

継続こそ力なり

次の機会はなかなかやって来なかった。
夏の暑さはさほどではなかったが、手先の凍える冬のゴミ拾いはちょっとしんどかった。
何のために始めたことだったかが分からなくなり始めた頃に、

「毎日ご苦労様」

と、杖をついて歩いていたおばさんに声を掛けられた。
動機はどうあれ、行動に対するひとつの評価がそこにあった。
方向性は変わったけれど続ける意味を見出した僕は、闇雲の行動を数値目標のある形式に変え、ゴミ拾いの回数を数えはじめた。

年間100回以上、定年までに1000回という目標を立てた。
もはや開始した動機とは随分違う話になったが、とにかく始めたことは続けてみようと思った。

僕の尊敬する上司の好きな言葉。

「継続こそ力なり」

どんなつまらないことでも、それを10年続ければ偉業になり、20年続ければ伝説になる。

確かに、さもありなんだ。
やりもしないことのゴタクを並べるなら、まずは始めて、そして継続してみることだ。
まずは3日続けて、ダメなら10日続けてみることだ。
それでもダメなら100回続け、更にダメなら1000回だ。
そこまで行けば、きっと何かが変わるだろう。
いやそこまで辿り着けば、もう変わる必要すらないと思うようになるかも知れない。

そして2年目、僕にその日が訪れたのだ。

テイク・ア・チャンス!

<ここで、場面は冒頭に戻る>

電車が走り出した。
空き缶が転がり出すのを待って僕は席を立った。

力むこともなく。
上気することもなく。
恐らくはかなり自然に僕は空き缶を拾った。

そして手に入れた空き缶には『しじみ70個分のちから』とあった。

お、これは如何にも僕に相応しいご褒美だなと感じた。

どうでもいいことの積み重ねこそ人生

きっと「そんなこと簡単なことじゃないか」と思う人もいるだろう。
でも思い続けて来なければ、多分今日もこの缶を捕まえられなかったに違いないと僕は思う。

ひとつ壁は越えたかな、と感じた。
課題はこの後も続けて行こうと思う。
もう二度と後に戻らないように。
そして、もっと新しい何かを手に入れるために。

1本で70個分ならば、100本集めたら7000個分になるのだな、
1000本ならば70000個か。
と、どうでもいい計算をしながら、
結局人生なんてどうでもいいことの積み重ねでしかないのだと思う。

駅のゴミステーションの空き缶入れに、随分と丁寧にこの缶を捨てた。
このどうでもいい出会いに深い深い感謝を込めて。

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心にいつも熱い想いが詰まっている「夢多きアラフィフ」です。子育ても給料を運ぶ以外はほぼお役ご免になりましたので、これからの自分はどう生きるかを模索しながら、第二の青春を生きています。『アオハルはいつも間違える』ので、記事には誤字脱字のなりように気をつけます(^^;;

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