むかしは良かった

むかしは、神も仏も住みやすい世の中で良かった・・・。
そんなため息が聞かれそうですが、何事も上手く行っていた昔へ戻りたいと願うこともあるのではないでしょうか。
   
... ところで、神も仏もどこかへ隠れることがあるのはご存知でしょうか?
一度お隠れになられると長らくは現れないそうなのです。
それではどうして神も仏も同じようにお隠れになるのでしょう?
  

神隠れと般涅槃

これは神と仏では各々に隠れられる目的は、この世の者たちだけで何とかさせようとすることは同じようなのですが、実はどのようにさせるかに違いがあるようです。
    
通常は、神は怒りであり、仏は慈悲であると言われていると思います。
つまり、この両方が同じ時期に各々のご判断で居なくなるということは、最も厳しい時代と言えそうです。
これはどういうことであるといえば、神はこの世の者たちが背いたことに対しヘソを曲げられ怒っているのです。
そして仏はといえば、教えることがなくなったのです。
      

私たちに唯一残された道

つまり、仏であっても神の怒りを解決する方法は難しいのです。
その中で私たちは、ただ最悪と考えてしまったら、あとは滅びを認めるしかないのです。

私たちに残された道とは何か?
それは、たとえ神や仏は居なくなっても、自分たちだけで学ぶテキストだけはこの世にまだ確かに存在し続けているのです。

それでは、そのテキストがあっても神や仏も更にこの世に居るということもあるとすれば、その状況は何故かは今後、もっと勉強していきましょうね!

仏ごころ無くして、経済無し。

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私は、まちづくりをもし専業にできたら素敵だと思っています。
世の中には、国造り、会社づくり、モノづくり、人づくり、お金づくり・・・さまざまな「つくり」がありますね。
その中でも、まちづくりとはわざわざ心掛けて作ろうとしなくとも、放っておけば出来上がるかのような最も漠然と掴みどころのないものに思えます。
しかし今あちこちで、何かとまちづくりが大切であると、なぜ呼びかけが始まりだしているのでしょう?
 
私は、まちづくりの動機の動機と言えば、ただのきっかけだけがカギを握っていると思います。
そして、まちづくりとは案外、国造りよりもっと大きな心がけを必要とするのではないかとも思えています。
それは、誰もが最も身近に感じ得る共通の課題意識であることである共に、一体まちづくりをどうすべきであるかは誰にも直接にはその責任や方法を知り難いことだからだと思います。
いわゆる、自分に直接降り掛からなければどうでも良いことこそが一番複雑で難しい問題であると言えるでしょうね。
ですから、その何か偶然のきっかけが必要なのです。
そのきっかけについて、関心がある人たちで話し合い、実行していけることが本業にすることができれば、私はきっと最高の喜びに違いないと思っています。

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