ある地点1からある地点2へ移動する際に、その進路を迂回するように、始点0から始まり、進路ベクトル(矢印1)→進路ベクトル(矢印2)と二段階を経て終点2へ到達したとします。
 
この二段階進路0→1→2に対し、その後に、始点終点をただ0→2と矢印で結び合わせることで、合成ベクトル(矢印3)ができ、当然、それで三角形ができますよね。...
 
すなわち、これが渡るべき生き方の道としますと、0→1→2と0→2では、どちらも目的の終点2へは到達するのは同じですが、元々あらかじめ目的終点2の位置が解かっていれば、早く辿り着く0→2だけを選びますよね。
 
しかし、解かってなければ先ずは0→1→2を実際に渡ってみて到達点を解明してから0→2の1本直線の道を後で知ります。
つまり、0→2さえ知れば、もう2度と0→1→2は通らなくても終点到達はできるわけです。
 
実に仏教ではこの3本目に解明した一番近道の矢印1本だけを説けばよいことを説いているのです。
つまり、解明用に示した三角形の中にはできるだけさ迷わせないように救出するためには、3本目の1本だけでたどりつける道を説けば足るのです。
 
たとえば、ブログを他人の為に書く際に、進路ベクトル1と進路べクトル2のことは書かず、合成ベクトル3の三角形の1辺だけのことを書くことで、それだけで多くの人に読まれやすくなると思います。

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私は、まちづくりをもし専業にできたら素敵だと思っています。
世の中には、国造り、会社づくり、モノづくり、人づくり、お金づくり・・・さまざまな「つくり」がありますね。
その中でも、まちづくりとはわざわざ心掛けて作ろうとしなくとも、放っておけば出来上がるかのような最も漠然と掴みどころのないものに思えます。
しかし今あちこちで、何かとまちづくりが大切であると、なぜ呼びかけが始まりだしているのでしょう?
 
私は、まちづくりの動機の動機と言えば、ただのきっかけだけがカギを握っていると思います。
そして、まちづくりとは案外、国造りよりもっと大きな心がけを必要とするのではないかとも思えています。
それは、誰もが最も身近に感じ得る共通の課題意識であることである共に、一体まちづくりをどうすべきであるかは誰にも直接にはその責任や方法を知り難いことだからだと思います。
いわゆる、自分に直接降り掛からなければどうでも良いことこそが一番複雑で難しい問題であると言えるでしょうね。
ですから、その何か偶然のきっかけが必要なのです。
そのきっかけについて、関心がある人たちで話し合い、実行していけることが本業にすることができれば、私はきっと最高の喜びに違いないと思っています。

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