小学校に保護者用の「育友会文庫」という大人向け図書のコーナーがあります。

今まで全く関心がなかったのですが、「クリスチャンではない方々は、どんな本に興味があるんだろう?」と思い、リストを見てみました。その中で気になる本を見つけました。

大人の流儀4 「許す力」 伊集院 静 (講談社)

聖書や信仰とは関係ない世の中で、人々はどうやって「許す力」を学び、会得していくんだろう?と興味を持ちました。

で、まずは「どんな方が書いたのかな?」と思い、「伊集院 静」さんのプロフィールを読んでみました。

作詞家でもいらっしゃるそうで、「ギンギラギンにさりげなく」「愚か者」など、近藤真彦さんのヒット曲を作詞した方みたいです。なんか、興味沸きました。

出典photo;牧師の妻

第1章は「許せないならそれでいい」

まずは「許せない」という気持ちを受け止め、素直に認めるということは決して悪くないと私も思います。

詩篇の中でダビデも「敵を滅ぼして下さい」とか、「死に絶えますように」みたいな祈りや歌を残しています。信仰を持っていても、許せない人がいたり、許せない出来事に遭遇したりするということは、私にもあります。

でも、煮えくりかえる思いにとどまっていては、自分が苦しいままなので、聖書から解決の道を求めるのですが・・・。

第1章の中の「人はみな許せないことを抱えて生きていく」という項目を読んでいて驚きました。この本の15ページ目に、聖書の話が出てきたからです。

「新約聖書にはそれまでの宗教の経典とはあきらかに違う、人間の行動のとらえ方が登場した。その中のひとつが許すという行動だ。」として、新約聖書ヨハネの福音書8章に出てくる「姦淫の現場で捕えられた女」の話を取り上げられていました。

伊集院さんは「姦淫の現場でとらえられたマグダラのマリア」と書いていますが、新約聖書では「罪の女」「姦淫の現場で捕えられた女」が「マグダラのマリアのことだ」とは書いていません。

参照記事:マグダラのマリア

でも、クリスチャンでも同一人物と思っている人は多いので、仕方ないと思います。私も、いろんな福音書の出来事や人物をごっちゃにして考えていたので・・・。

姦淫の罪を犯した女をどうイエスは裁くのかと律法学者達が迫ったとき、イエス様は黙っていました。

けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。
「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」

そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。

イエスは身を起こして、その女に言われた。
「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」彼女は言った。 「だれもいません。」
そこで、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」

出典ヨハネの福音書8章1節~11節(新改訳聖書)

伊集院さんの「許す力」には、「そこでイエスは、誰も石を投げず、誰もいなくなったのなら、私はあなたを許します、と口にする。」と書いています。

ここは何となく、人々の行動に左右されるような「許し」である印象を与えるので、少し違和感があります。

イエス様は「誰も石を投げず、誰もいなくなったのなら、私はあなたを許します。」と言ったのではないからです。

実際に「誰もいなくなった」のですから、「もしも」という想像の話になってしまいますが、もしも誰かが石を投げつけたとしても、イエス様はこの女性をゆるし、むしろそういう事態になったとしたら女性をかばい、守らなかっただろうか?と思うのです。

この女性を指さし、「ゆるすのか、ゆるさないのか?」と問い続けてやめなかった人々に対し、そうではなくて、「あなたがたのうちで罪のない者が、石を投げなさい。」つまり女性ではなく、「自分の罪」を見るように人々の視点を変えられたのです。

続く伊集院さんの言葉は共感するものがあります。

「ただおぼろではあるが、許すという行動、許すことでそこから何かがはじまることはたしかなような気がする。」

出典大人の流儀4 「許す力」 伊集院 静 (講談社)

間違いなく、「ゆるす」ことで「そこから何かがはじまることはたしか」であると私も思います。

「自分は多くゆるされている者だ」と自覚し、人をゆるすことができるようになりたいものです。
ameblo;牧師の妻 こころのブログ

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