「俺はほうき相手でもプロレスができる」

今回、ご紹介するクラッシャー・バンバン・ビガロ選手は1980年代後半から2000年代前半まで活躍したプロレスラーです。

「恐怖の入れ墨獣」、「ビースト・フロム・ジ・イースト」と呼ばれ、191cm 160kgの巨体を誇った怪物キャラクターにも関わらず、あまりにも運動神経が抜群で器用だったので職人レスラーとして日本やアメリカのプロレス界で重宝されたプロレスラーです。


彼はどんな相手でもプロレスとして成立させられる技量の持ち主だった。
受け身にも定評があった。
特にスープレックスは他の大型外国人よりも投げられていた。
あれだけの体重を背負っていたら、後ろ受け身をしたくない選手が多いのだが、彼は違った。
投げられる際の豪快な受け身が相手の技の良さを引き出している。
だから、他業種の大物のプロレスデビュー相手に指名されるのである。

レスリング世界選手権フリースタイル優勝 サルマン・ハシミコフ
大相撲第60代横綱 北尾光司
元NFLスーパースター ローレンス・テイラー
元アマチュアボクシング欧州王者 トニー・ホーム

これらのプロレス素人相手でもビガロは試合をコントロールし、プロレスを魅せた。
こんなことができるプロレスラーはなかなかいない。
それだけ関係者から評価されていたである。

「俺はほうき相手でもプロレスができる」

かつてこのように発言していたビガロは、身を持って証明して見せた。

出典 http://ameblo.jp

器用すぎる巨獣が抱えた「便利屋」というジレンマ/C・バンバン・ビガロ【俺達のプロレスラーDX】

バン・バン・ビガロは超ヘビー級ながらも軽量級の様な動きが出来た稀有な存在だ。

193cm、176kgの体躯は、飛行機で移動するなら2人分の座席を買わないといけないほど。それでもトップロープからムーンサルト、ダイビングヘッドバットと、体操選手並の動きを披露し続けた。だがこうした華麗な動きがビガロの真骨頂ではない。タズ、ゴールドバーグ、そしてNFLホール・オブ・フェーマーであるローレンス・テイラーなどとリング上で見せた荒々しい戦いこそ、後世に語り継ぐべきことだ。

出典 http://www.wwe.co.jp

頭のてっぺんに炎のタトゥーを彫ったモンスター系ヒール。超巨漢タイプだったが、非常に身が軽く運動神経がいいレスラーで定番シーンのだるまさんが転がるようなカート・ホイール(側転)が観客を喜ばせた。バンバン・ビガロというどことなくかわいらしいリングネーム、"アンコ型"の体つきとユーモラスな動きがファンに愛された。

出典レジェンド100 アメリカン・プロレス伝説の男たち 斎藤文彦 著(ベースボールマガジン社)

そんな彼が送った生涯とは…。

脳みそにタトゥーを彫った男

ビガロ選手は1961年9月1日アメリカ・ニュージャージー州アズベリーパークに生まれました。ビガロ選手はプロレス入りするまでは街きってのワルでした。

スコット・ビガロ(ビガロの本名)は18歳のときに頭のてっぺんにタトゥーを彫った。行きつけのタトゥー・パーラーは地元のバイカーのたまり場で、腕や肩に大きな彫り物を入れたバイカー仲間はたくさんいたけれど、いきなり脳天にインクをぶち込んだのはビガロだけだった。
(中略)
ネプチューン・ハイスクール時代はアマチュア・レスリングでニュージャージー州選手権三位になったこともあるが、学校というところでスポーツをやるのはどうしても好きになれなかった。ハイスクールを卒業する前にバイカーの仲間たちに誘われてバウンティー・ハンター(賞金稼ぎ)の仕事を手伝うことになった。
(中略)
撃たれたこともあったし、撃ってしまったこともあった。いったいどっちがグッドガイで、どっちがバッドガイなのかわからなくなることがよくあった。気がついたら、十代の終わりを塀のなかで迎えていた。

出典みんなのプロレス 斎藤文彦 著 (ミシマ社)

若い頃、ビガロはヤバいこと、いけないことをたくさんやった。頭のてっぺんにタトゥーを彫ったのは、プロレスラーになるよりはるか前の根性焼きみたいなエピソード。ハーレー・ダビッドソンに乗るようになったのは、16歳のときだった。いつも銃を持ち歩いていた。撃ったことも撃たれたこともある。塀の中に入っていたことだってある。プロレスをやってみようと思ったのは、二十代半ばになってからだった。

出典BOY ARE BOYS ボーイズはボーイズ とっておきのプロレスリング・コラム 斎藤文彦 著(梅里書房)

自分のために、家族のためにプロレス界へ

なにかちゃんとした仕事はないか、自分のためにもなって家族のために喜んでもらえる仕事はなんだろうと考えたらプロレスがあった。脳天に彫ったタトゥーはバイカー仲間に自慢するためでもなくバウンティー・ハンターとしてハクをつけるためでもなく、バンバン・ビガロに変身するための"片道切符"だった。

出典みんなのプロレス 斎藤文彦 著 (ミシマ社)

プロレスラー養成所のモンスター・ファクトリーを経て、1985年12月に「クラッシャー・ユーコフ(Crusher Yurkof)」のリングネームでデビュー。1987年1月、アントニオ猪木の新たなライバルとして新日本プロレスに初来日。当初はモンスター・ファクトリーの主宰者である元プロレスラーのラリー・シャープをマネージャーとして帯同していた。

出典 https://ja.wikipedia.org

トップ外国人レスラーから便利屋レスラーへ…

1987年に新日本プロレスに初来日以来、ビガロ選手は常連となり、トップ外国人レスラーとなります。しかし、いつも間にか彼は「便利屋」と呼ばれるポジションを任されるようになりました。

彼は余りにも器用すぎる、プロレスが上手すぎるが故に本人にとっては有難くない「便利屋」という立場にいることが多かった。

1987年新日本に初来日した当初はトップ外国人だったのに、いつの間にか「便利屋」に移行していった。ビガロはプロレス界のトップを目指したのにも関わらず、「便利屋」にジレンマを抱きながら、その立場から逃れられない運命に翻弄された巨獣だったのである。

出典 http://ameblo.jp

器用すぎる巨獣が抱えた「便利屋」というジレンマ/C・バンバン・ビガロ【俺達のプロレスラーDX】

実は大相撲転向も考えていたビガロ

実はビガロ選手にはなんと大相撲転向も考えていた過去があります。

元大相撲横綱・北尾光司のデビュー戦の相手をつとめたあと、ビガロは日本に定住して大相撲へ入門することを本気で考えていたことがあった。このスモウ・レスラー転向プランは、知人の「相撲の土俵ではタトゥーはご法度」というアドバイスでNGになった。ビガロは「タトゥーがダメならしょうがない」とあっさりとあきらめた。

出典みんなのプロレス 斎藤文彦 著 (ミシマ社)

「プロレスは基本的に子供ファンのものである」

「プロレスは基本的に子供ファンのものである」

これは30代前半のビガロが考えていた持論である。
プロレスを支えているのは子供ファンであり、もし子供ファンに忘れ去られたり、インパクトが残らなくてはプロレスラーとしておしまいだという。

彼にとっての理想のプロレスラーとは、子供ファンが、学校の休み時間に「この試合よかったね」とか「このレスラーよかったね」と語り合えるようなヒーローだという。
その子供ファンが大人になっても、「やっぱり子供の時に観たこのレスラーよかったね」と会話をしてくれる。このようないつまでも記憶の残るプロレスラーが彼の目指すものだったのだ。

もしかしたら、彼はプロレスというビジネスに対してどこか達観している部分があったのかもしれない。だからこのような持論が持つようになったのだろう。

出典 http://ameblo.jp

器用すぎる巨獣が抱えた「便利屋」というジレンマ/C・バンバン・ビガロ【俺達のプロレスラーDX】

「俺はグーチ・ファミリーだ」

ビガロ選手は新日本プロレスに愛着がありました。
それは新日本を去ってもその想いを持ち続けました。
彼はいつも口癖のようにこう言っていました。

「俺はグーチ・ファミリー(坂口征二派)だ」

当時の新日本プロレス社長・坂口征二氏への忠誠と恩義を彼は忘れていませんでした。だから、彼が1994年にWWE(当時WWF)経由で、WARに参戦した際にも坂口氏への了承を得てほしいと願っていました。

俺がWWEに行ったのは、ニュージャパン(新日本プロレス)が提示した条件と俺が望んていたものがうまくマッチしなかったからなんだ。それだけのことなんだよ。そうじゃなかったら、俺は今だってニュージャパンのリングに上がっているさ。

出典DECADE(デケード) 1985~1994 プロレスラー100人の証言集(上下巻) 斎藤文彦 著 (ベースボールマガジン社)

「裏方の勉強をしたい」「団体をつくりたい」ビガロの夢

ビガロ選手は1992年に新日本プロレスを退団し、WWE(当時WWF)入りを果たしました。WWEが1994年に日本公演ツアーを行いました。ビガロ選手は参加メンバーの中にいました。その後、ビガロ選手はWWEのスケジュールをこなしながら、当時のWWEが提携していた天龍源一郎選手率いるWARにも参戦しました。

この頃にビガロ選手は来日中のインタビューでプロレスへの想いを熱く語りました。

「実はクリエイティブ・ワークに興味を持っているんだ。つまりプロデューサーの仕事。ブッカーと言っていい」

「このあいだの(1994年のWWE)ジャパン・ツアーのありさまを目のあたりにして、ハッと気がついたんだ。例えばだな、日本のマーケットってもんを俺ほど理解している人間は(WWE内部には)他にはいないわけだ。あのツアーは出場メンバーの顔ぶれ、カード編成からロケーション設定、アリーナ選びまですべてがまちがいだらけだった。まずすべてのベルトはすべて持ってこなくちゃダメだよな。それから仕事をできるやつを連れてこなくちゃ。日本のファンはよくレスリングを知っているから、流すようなカードを組んだらいけないんだ。日本の観客はマガジンに載っている(アメリカでの)WWEの写真をよく見ているわけだろ?だったら、あれと同じものを観せてやらなければまずいわけさ。マジソン・スクエア・ガーデンをそっくりそのままトーキョーに持っていくつもりでやんなかったら、はじめからジャパン・ツアーなんて考えないほうがいい。『日本のプロレスファンはアメリカに比べて10年遅れている』なんて発言したスーツ(背広組・幹部)もいたけれど、それは違うだろっていいたいね、俺は」

「俺はビンス・マクマホンに進言したんだよ。これからも日本でビジネスをやるつもりがあるんだったら、俺をレップ(代理人・責任者)にしてくれ、とね。メンバーの選出からカード編成、スケジュールのこと、マスコミとの付き合い、パブリシティに至るまで、俺が仕切ります、ってことさ。日本のファンに喜んでもらえるようなビッグショーをプロでデュースする自信があるんだよ、俺は」

「オフィス・ワークだけに専念するために1,2年,試合を休んでもいいんじゃないかって思っている。新人の育成もしてみたいし、ブッカーとしても動いてみたい。レスリングとクリエイティブ・ワークの両立はやっぱり難しい。だったら、いっそのこと休業ってことにして、裏方の勉強もしてみようかなって思っているとこさ」

「いずれは、日本でもクリエイティブ・ワークをやってみたいんだよ。今、ニュージャパン(新日本プロレス)で長州力やマサ斎藤がやっているような仕事をね、俺もできないかな、と。ガイジンがそんなことをやった前例はないだろ。いつか俺も団体をつくって、俺のチームが日本の各団体に出場するってのはどうだ?」

出典DECADE(デケード) 1985~1994 プロレスラー100人の証言集(上下巻) 斎藤文彦 著 (ベースボールマガジン社)

ビガロ選手が抱いた夢は叶うことはありませんでした。
WWEのサーキットに嫌気を指したビガロ選手は1996年に離脱。
その後、WCW、ECW、WAR、FMWといったアメリカや日本の各団体に参戦しました。

総合格闘技への挑戦

職人レスラーであるビガロ選手はたった一度だけ総合格闘技に参戦したことがありました。

日本で行われた初めての金網バーリ・トゥード(何でもアリの格闘技)U-JAPANのメインイベントにも急きょ出ることになった。当初は、. UFCでも活躍した"怪人"キモの相手はビッグバン・ベイダーを予定していたが、ベイダーがそのオファーを回避したため、ビガロに白羽の矢がたった。
ビガロには日本で知名度があるトップ外国人レスラーだったので、主催者側にとっては集客目的のためにオファーをしたのである。
そして、ビガロは本領発揮できず、秒殺されてしまう。
プロレス以外のリングでも彼は「便利屋」として扱われてしまう。

出典 http://ameblo.jp

器用すぎる巨獣が抱えた「便利屋」というジレンマ/C・バンバン・ビガロ【俺達のプロレスラーDX】

ビガロは、オーディエンス(観衆)を手の平に乗せて楽しんでしまうタイプのエンターテイナーである。観客がそこにいてくれさえすれば自由奔放な"バンバン・ビガロ"を演じることができる。でも、オクタゴンのなかでは目の前で仁王立ちしている相手と自分のふたりきりになる。
(中略)
キモは、ビガロをよく研究していた。ウエストの太いビガロの長所が正面からの突進力で、弱点がヒザから下のバランスの悪さにあることをちゃんと知っていた。
(中略)
キモはキモで、ビガロはやっぱりビガロ。バーリ・トゥードはバーリ・トゥードで、プロレスはプロレス。二人のファイターは、再び視線を合わせることなくオクタゴンを下りた。

出典BOY ARE BOYS ボーイズはボーイズ とっておきのプロレスリング・コラム 斎藤文彦 著(梅里書房)

そして、入れ墨獣はリングを去った

2000年7月、ビガロは自宅付近で火事に巻き込まれた近所の子供を大火傷を負いながらも助け、その勇気ある行動は感動を与えたが、その後遺症がひどかった。体の40パーセントをやけどする重症を負い、やがてプロレスからセミリタイアしていった。

出典 http://ameblo.jp

器用すぎる巨獣が抱えた「便利屋」というジレンマ/C・バンバン・ビガロ【俺達のプロレスラーDX】

「俺の人生にセカンドハーフはない」リングを下りたビガロに降りかかったトラブルだらけの晩年

人生にファースト・ハーフ(はじめの半分)とセカンド・ハーフ(あとの半分)があるとしたら、プロレスラーの"バンバン・ビガロ"はスコット・ビガロの人生のはじめの半分の登場人物でしかなかった。
(中略)
プロレスができない体になったビガロにとって、はじめの半分に区切りをつけて、あとの半分をどうするのべきかを決めるのはやっかいなことだった。

40歳の時にペンシルベニアで始めた"ビガロズ・デリ"というサンドウィッチと惣菜のお店は一年ももたなかった。腰が悪いから一日中立ったままの接客はつらいし、見ず知らずのお客さんと世間話をしながらサンドウィッチを作り、愛想笑いをしながら6ドルばかりのキャッシュをいただいて、「サンクス」といいながらおつりの小銭を返すような仕事はビガロにはできなかった。

弁護士になったカミさんは、かつてのスーパースターがなんにもしないでゴロゴロしていることを許さなかった。そしてある日、ビガロは家を追い出された。
(中略)
離婚してから、三人の子供達とは一度も会うことができなかった。ずっと養育費を滞納していたから、それは仕方がないことだった。
(中略)
2005年10月、ビガロはフロリダ州ヘルナンド・カウンティの州道50号線でスリップ事故を起こし、後ろに乗っていたガールフレンドが全身打撲で重体となった。バイクの免許はとっくに失効していたし、ニュージャージー州のドライバーズ・ライセンスは"免停中"。酔っぱらい運転だったし、スピード運転もしていた。
(中略)
弁護士を頼むお金がなかったため刑事裁判では国選弁護士を用意してもらったが、ビガロは公判中の裁判所への出廷をブッチした。大ケガをしたガールフレンドの親族からは民事訴訟を起こされたが、それもブッチした。ありとあらゆるトラブルが束になって追いかけてきた。
(中略)
おそらく、ビガロは"バンバン・ビガロ"にはセカンドハーフがないことを悟っていたのだろう。

出典みんなのプロレス 斎藤文彦 著 (ミシマ社)

プロレスのフィールドでは器用すぎたビガロ選手でしたが、リングを下りるとプロレスのようには物事はうまく進まず、トラブルが次々と襲いかかってきました。

「俺はほうき相手でもプロレスが出来る」と豪語していたビガロ選手。
しかし、人生は自らの手で操れるほど甘くはなかったのです。

そして、リングを下りた彼の人生にはもしかしたらセカンド・ハーフはなかったのかもしれません。

クラッシャー・バンバン・ビガロ、永眠

2007年1月19日、新しい恋人のアパートで静かに息を引き取った。
享年45歳。
死因は不明だが、薬物の大量摂取による副作用という説があるという。

出典 http://ameblo.jp

器用すぎる巨獣が抱えた「便利屋」というジレンマ/C・バンバン・ビガロ【俺達のプロレスラーDX】

語ることができなくなったビガロは、家族と友人たちに付き添われてホームタウンのニュージャージー州アズベリーパークへ帰っていった。ビガロが大好きだったアトランティック・オーシャンが一望できる大きな教会で暴走族ノリの盛大なお葬式が営まれたのは、ビガロが無言のまま旅立ってから一週間後の土曜のことだった。

アズベリーパークのお墓のまえには黒塗りのハーレーが列をなし、体じゅうにタトゥーを彫った油っぽいバイカーたちの集団が"部族"をあげて故人との別れを惜しんだ。

出典みんなのプロレス 斎藤文彦 著 (ミシマ社)

ビガロはこの世に遺したものとは…

プロレス界のトップを目指した巨獣は「便利屋」という不本意なポジションでプロレスを続けた。
ビガロは運命論者だったという。
人にはそれぞれに合った立ち位置や性分がある。
彼の波乱のプロレス人生も運命だったのかもしれない。

しかし、ビガロは生前、自らの手で一つだけ強引に運命を切り開いて見せた。

それは、現役生活の活躍を見た少年ファンが、大人になっても忘れない記憶の残る選手になれたことである。

クラッシャー・バンバン・ビガロは翻弄の果てに、自らが描いた理想を叶えたのである。

出典 http://ameblo.jp

器用すぎる巨獣が抱えた「便利屋」というジレンマ/C・バンバン・ビガロ【俺達のプロレスラーDX】

「この人は贅沢な人生だったと思う」

昭和に活躍した伝説の芸人・トニー谷さんの波乱の生涯を作家の村松 友視氏はこう評したことがありました。

「器用すぎる怪物職人レスラー」クラッシャー・バンバン・ビガロ選手の生涯、それは運命と夢と挫折が詰まった短くも贅沢な人生だったといえるかもしれません。

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ブログでプロレスをメインに取り上げてます。

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