プロレス界最高峰の試合

プロレス界はさまざまな名勝負が誕生しました。
レスラー達の技量と器量と魂の攻防に多くのファンは心を打たれ感動しました。

かつて、プロレスライターの小佐野景浩氏はこのように語ったことがあります。

「ジャイアント馬場さんは鶴龍対決こそがプロレスの最高峰だと考えていた」

ジャイアント馬場さんといえば、全日本プロレスの創設者で、日本プロレス界の御大です。
その馬場さんが絶賛したのが、ジャンボ鶴田選手VS天龍源一郎選手の鶴龍対決だったのです。

"完全無欠のエース"ジャンボ鶴田

ジャンボ 鶴田(ジャンボ つるた、1951年3月25日 - 2000年5月13日)は、日本のプロレスラー。本名・旧リングネーム:鶴田 友美(つるた ともみ)。三冠ヘビー級王座の初代王者であり、日本人初のAWA世界ヘビー級王者(第30代)

出典 https://ja.wikipedia.org

"風雲昇り龍"天龍源一郎

天龍 源一郎(てんりゅう げんいちろう、1950年2月2日 - )は、日本の男性プロレスラー、元大相撲力士。本名は嶋田 源一郎(しまだ げんいちろう)。福井県勝山市出身。身長189cm、体重120kg(力士時代は身長185cm、体重112kg)。
多くの同年代レスラーが年齢と共に前座でファンを楽しませる役割に回る、または引退する中、第一線で活躍し続け日本プロレス界において「生ける伝説(Living Legend)」として、一目置かれる存在である。

出典 https://ja.wikipedia.org

鶴龍対決とは…

鶴龍対決(かくりゅうたいけつ)とは、日本のプロレスラーであるジャンボ鶴田と天龍源一郎の、1987年からスタートした一連のシングル対決の呼称。同年3月までタッグを組んでいた2人のコンビ名が鶴龍コンビ、または鶴龍砲と呼ばれていた事に由来する。天龍が全日本プロレスを離脱する1990年まで、全日の看板カードだった。

出典 https://ja.wikipedia.org

ジャンボ鶴田選手と天龍源一郎選手は元々は「鶴龍コンビ」を結成していたタッグパートナー同士でした。

天才、全日本プロレスのエースである鶴田選手と努力辛抱、全日本プロレス第三の男と呼ばれた天龍選手は互いの人生を賭けて全身全霊の闘争を繰り広げました。

それが後年、「名人戦」、「プロレス最高峰の試合」と絶賛されることになったのです。

抗争前に二度対戦していた鶴田と天龍

実は鶴田選手と天龍選手は一連の抗争"鶴龍対決"に発展する前に二度、シングルマッチで対戦したことがありました。

初の一騎打ちが1982年4月16日福岡国際センターで行われた「第10回チャンピオン・カーニバル」公式戦。30分フルタイムドローで終わりました。

若大将と呼ばれ次代のエースと呼ばれていた当時の鶴田選手と第三の男と呼ばれた天龍選手には少し格の差がありました。

ちなみに天龍選手はこの試合を引き分けで乗り切れたとき、「プロレスラーとして飯を食っていける」と感じたといいます。

二度目は1983年4月20日東京体育館で行われた特別試合。
この日、日本テレビの上層部が観戦に訪れていました。
ジャイアント馬場さんが全日本中継をゴールデンタイムに復帰させるための切り札としてこのカードを急きょマッチメイクしたのです。
結果はまたも30分フルタイムドローでした。

この年の「世界最強タッグ決定リーグ戦」で二人は鶴龍コンビを結成したのです。

鶴龍コンビ結成

鶴龍コンビ(かくりゅうこんび)とは、日本のプロレスラーであるジャンボ鶴田と天龍源一郎のタッグチームの呼称。鶴田の「鶴」と天龍の「龍」をとって命名され、1983年から1987年にかけて全日本プロレスで活躍した。
なお、鶴龍を「かくりゅう」と読むことについて鶴田は当初不満があったらしく、TVやプロレス雑誌のインタビューで「俺は鶴田(つるた)だから『つるりゅう』だ」と言っていたが、語呂の良さから「かくりゅう」が定着した。「鶴龍砲」または「TT砲」とも呼ばれていた。

出典 https://ja.wikipedia.org

鶴龍コンビは全日本プロレスを代表する看板タッグチームとなりました。

世界最強タッグ決定リーグ戦は1984年、1986年に優勝を果たしています。

しかし、1987年6月、当時全日本プロレスに参戦していた長州力選手を中心としたジャパン・プロレスの面々が新日本プロレスへUターン移籍をし、全日本プロレスに危機感を感じた天龍選手は行動を起こしました。

パートナーである鶴田選手と相対する道を選んだのです。

「ジャンボの背中は見飽きた!」

それは天龍選手の紛れもない本音でした。

天龍選手は阿修羅・原選手らと天龍同盟(レボリューション)を結成し、鶴田選手率いる正規軍との抗争は全日本プロレスを活性化させ、プロレス界全体に波及しました。

ジャンボの凄さと全日本の素晴らしさを分からせたい

天龍革命と呼ばれる行動を起こした心境を天龍選手はこう振り返ります。

俺は一番身近にいて、"ジャンボ鶴田はみんなの評価以上のものを持っているんだよ!"っていう気持ちが強かったからね、だからファンや他団体に対してジャンボの凄さ、全日本プロレスの素晴らしさを分からせたいという気持ちがあったんだよ。その時にたぶん、俺もジャンボが"闘ってもいいかな"って思うポジションに来ていたから、初めてジャンボが俺の方を向いて真っ向から来てくれたんだと思うんだよ

出典日本プロレス事件史 vol.9 ザ・抗争 週刊プロレススペシャル(ベースボール・マガジン社)

1987年8月31日、日本武道館大会で天龍革命後に二人は初の一騎打ちを行いました。
試合は鶴田選手のこれまで見られなかった怪物性が爆発し、普段クールな男が感情剥きだしに天龍選手を叩き潰しに来ました。

天龍選手にとってはこの展開は願ったりかなったりでした。

「あのジャンボがここまで本気になってくれている…」

プロレスの試合で本気にならないで、能力を極力セーブしていた男がリミッターを外したのです。

それでも天龍選手はこれで負けてしまうと何のために行動を起こしたのか意味がなくなってしまいます。

最後は執念のリングアウト勝ちを果たしました。
鶴龍対決第一章は天龍選手に凱歌が上がりました。
この試合は1987年のプロレス大賞のベストバウトに選出されました。

全人生を賭けての正面衝突した鶴田と天龍

1987年10月6日、日本武道館で実現した鶴龍対決第二章は鶴田が暴走し反則負けとなり、1988年10月28日、横浜文化体育館で実現した鶴龍対決第三章は今度は天龍が暴走し反則負けとなりました。

技量と器量と感情がぶつけ合う二人の男。
全人生を賭けた正面衝突を繰り返す鶴龍対決はファンの心を掴みました。

天龍の想い「やることすべてが気に食わなかった…」

あの頃は全人生を賭けてジャンボとやりあったからね。人生から価値観から全てが対極にいるジャンボが反対側のコーナーにいるわけだから、すべてが面白かったし、闘いはスパークしたよね。やってることすべてが…それこそ箸の上げ下げから気に食わないとか、全てがジャンボにつながるんだからさ。そうした全てがリングの上に投影されたと思うよ。

出典日本プロレス事件史 vol.9 ザ・抗争 週刊プロレススペシャル(ベースボール・マガジン社)

鶴田の想い 「天龍のプロレスは宗教みたいなものだ」

天龍のプロレスっていうのは、宗教みたいなもんだよね。日本人ってさ、全身全霊を傾けてやることを好むでしょ。だから、天龍ファンっていうのは、そういうのに同調してる人なんだろうね。
(中略)
24時間、プロレスのことを考え続ける『プロレス漬け』の生き方をするつもりはない。プライベートはプライベート、リングはリングってね。

出典痛みの価値 馬場全日本「王道プロレス問題マッチ」舞台裏 市瀬英俊 著(双葉社)

衝撃!鶴田のパワーボムで天龍失神…

1989年4月20日、大阪府立体育会館にて三冠ヘビー級王座を賭けて鶴龍対決第四章が実現しました。

試合は壮絶な結末が待っていました。

鶴田選手が天龍選手の得意技であるパワーボムを繰り出しましたが、天龍選手
の首が急角度でマットに突き刺さり、失神してしまいピンフォール。
鶴田選手が勝利しました。

後年、鶴田選手はこの一件について語っています。

「あれはやりすぎた…」

そして、天龍選手にとって印象深い試合として挙げているのが大阪での試合だといいます。

 忘れもしない鶴龍対決・第4章だ。1989年4月20日、大阪府立体育会館で行なわれた三冠ヘビー級選手権。
(中略)
鶴田vs天龍戦はやはり凄まじかった。試合タイムは16分3秒、パワーボムから片エビ固めで鶴田のフォール勝ち。三冠ヘビー級王座の初防衛に成功している。
 鶴龍対決にしては、勝負タイムがやや短い短期決着。しかも、掟破りのパワーボムで鶴田がフォール勝ち。結果だけを確認すると、不思議な感じがする。ただし、この決着シーンを見たら、だれでも背筋がゾクッとすることだろう。アクシデントなのか、それとも鶴田の怒りと本気が爆発したのか? ここが微妙なところなのだが……。

 とにかく、197センチという長身の鶴田が天龍を高々とリフトした。そこから、ほとんど真っ逆さまといっていい急角度で天龍をマットに叩きつけたのだ。

 観客もマスコミも声を失った。まったく動けない天龍。一瞬、戸惑いの表情を浮かべたように見えたものの、鶴田はそのままフォールにいった。3カウントが入ると、「どうだ!?」と言わんばかりの表情で仁王立ちして、上から天龍を見降ろした。このときのリアルな状況を天龍が話してくれた。

「俺も痺れて動けなくなって、(和田)京平が『大丈夫ですか!?』って。俺が言ったのは、『京平、カウントとってくれ!』って。動けなくてね。で、ジャンボが押えこんできて、ワンツースリーって取っちゃったんだけど」

 首が太く、タフな天龍でなければ大ケガどころか、それ以上の事態を招きかねないような1発だった。

 それにしても天龍らしい。鶴田を破った歓喜の一戦ではなく、怪物・鶴田に事実上ノックアウトされた一戦がもっとも印象深いと言うのだ。これはすなわち、「俺はジャンボを本気にさせた!」という天龍の自負心、プライドの裏返しだと思うのだ。

出典 http://the-big-fight.jp

【GK金沢克彦コラム連載第70回!! 「天龍ラストインタビューこぼれ話」/THE BIG FIGHT】

鶴龍対決の最高傑作!1989.6.5 日本武道館

1989年6月5日、日本武道館で三冠ヘビー級王座を賭けて、大阪大会のリターンマッチとして鶴龍対決第五章が実現しました。

この試合こそ、鶴龍対決の最高傑作でした。

天龍が勝った。
天龍が勝った! 
天龍が勝った!! 

試合開始から24分5秒。和田京平レフェリーの手が、確かに3回マットを叩いた。

「ワン、ツー、スリー!」

1万5200人、超満員の観衆の大合唱が、天龍の華麗なる復活劇を熱く祝福する。セコンドについていたハンセンが、リングに上がって半ば放心状態の天龍に手をさしのべる。そして、敗者・鶴田もまた、まだ立ち上がることのできない天龍に、清々しく握手を求めてきた。ここにもまた2人、その復活劇を祝福する男たちがいた。

レスラーにとって、致命傷とも言うべき首の負傷は、天龍をことごとく弱気にしていた。武道館大会の前日、大月大会の控室で、鶴田戦の意気込みをたずねられた天龍は、こう語っている。

「スパイビー・スパイクをくってから(5月24日、秋田)調子が悪い。やらなきゃいけないっていう気持ちはでてきたんだけど、体がそれについていかないんだ」

この言葉を記者団から聞かされた鶴田は、きっぱりとこう言い切った。

「悔いの残らないように、思いきっていきますよ。ガンガンいかないと天龍に対して失礼ですから」

弱点である首は攻めますか?との問いには…。

「リング上で目が合ったら、弱点を攻めるのがプロです」

鶴田にしても、内心では相当な葛藤があったに違いない。しかし、プロとして試合をする以上は、余計な遠慮は自らの命取りになってしまう場合すらあり、それはできない相談だ。

ただ、人間として、ひとりの人間のケガさせたという負い目は必ずあるはず。鶴田の決意表明の裏には「ガンガン攻めていくから、それに耐えられるだけの天龍であってほしい」との想いも感じられた。そして、決戦当日。試合前、天龍は記者団を控室からシャットアウトした。ドアのすき間からチラッと見えた表情は、決して落ちこんでいる風でもなかったが、一向によくならない首の状態を聞かれるのが、おそらくうっとうしかったのだろう。

午後9時32分。天龍が青コーナーの花道から登場。続いて、反対側の花道から鶴田が入ってきた。「天龍コール」と「鶴田コール」が激しく交錯する。リング上では、両雄の視線がこれまた激しくぶつかり合う。もう泣き言はいいっこなしだ。
ゴングが鳴った。先制ヒットは鶴田のジャンピング・ニーだ。天龍はこれを軽く受け流すと、一気にジャーマンにもっていった。早々とカウント2を奪う。起き上がる天龍からは、首の状態を気にしている様子はうかがいとれない。

もう大丈夫、試合をするには差し支えなさそうだ。

しかし、対戦相手の鶴田はそこまで冷静な判断はできなかったようで、天龍の意外な大技を食い、どう攻めていくべきか10分すぎまで迷ってしまったという。とりあえず選択した戦法は、やはり首に的を絞ったスリーパーだった。そして10分すぎ。カウンターのジャンピング・ニーが号砲となり、鶴田のラッシュが始まった。天龍の背後から、首めがけて勢いよく腕を振り降ろす。いささかの容赦もなく。さらに、鶴田は前かがみになった天龍の腰に、グルッと手を回した。大きくどよめく観客たち。パワーボム狙いだ! こらえる天龍! 持ち上げようとする鶴田! ここは、天龍が勝った。ショルダースルーで切り返すと、リング上は何とも言えぬホッとした空気に包まれたのである。

しかし、鶴田の攻撃は止まらない。コーナーに詰めてのジャンピング・ニー、ラリアット、ジャンピング・ネックブリーカー、ブルドッキング・ヘッドロック、ダイビング・ニードロップ3連発、空中胴絞め落とし、そしてバックドロップ。鶴田が覆いかぶさるたびに、今度は悲鳴にも似た絶叫が館内を支配する。これらをことごとくハネ返した天龍が、一瞬のスキをついてラリアット、延髄斬り、そしてパワーボムと勝負に出た。耐えに耐えた末の、最初で最後の賭けだった。2発目のパワーボム。それは意地と執念の結晶だった。「ワン、ツー、スリー!」

敗れた鶴田は言う。

「こんなにいいライバルをもって、ボクは幸せだ」と。

勝った天龍も見事なら、わだかまりを捨てて激しく、そして厳しく攻め立てた鶴田も、立派だった。天龍革命の危機は去り、ここに新たな鶴龍死闘伝説が始まりを告げたようだ。(市瀬英俊)

出典週刊プロレス【ベースボールマガジン社】

悲願の鶴田越えを果たし、第二代三冠ヘビー級王座を獲得した天龍選手。
これまで以上に鬼となり、怪物性を発揮し、敗れても男を上げた鶴田選手。

この日の闘いに”敗者”はいませんでした…。

天龍全日本離脱により、鶴龍対決は終焉へ…

1989年10月11日、横浜文化体育館にて実現した鶴龍対決第六章で、天龍選手の新型パワーボムをウラカン・ラナで切り返して勝利した鶴田選手。


1990年4月19日、横浜文化体育館で行われた鶴龍対決第七章が二人の最後の対決でした。
試合は鶴田選手のバックドロップ・ホールドで天龍選手は完敗。

この試合を最後に、天龍選手は全日本を離れ、新団体SWSに移籍しました。
こうして鶴龍対決は終焉を迎えたのです。

鶴田の檄「"天龍、どうした!?"と言いたい」

天龍選手が全日本を去りましたが、鶴田選手は全日本のエースとして後輩の三沢光晴選手や川田利明選手の前に高き壁として立ちはだかりました。

一方、ライバルの天龍選手は新団体SWSで苦悩の毎日を過ごしていました。

そんな天龍選手に鶴田選手は檄を飛ばしたことがありました。

1991年4月16日、スタン・ハンセン選手を破り「チャンピオン・カーニバル」を優勝し、同年4月18日に三沢光晴選手を破り、三冠王座を防衛した鶴田選手は試合後、このようなコメントを残しました。

「同世代の天龍や長州に元気がないので"この年代はまだまだ負けないぞ!"ということを見せたかった。"天龍、長州、どうした!?"と言いたいね」

天龍選手は後日、このようなコメントを残したと言います。

「元気がいいからこそ、ああいう発言が出るんであって、俺の口から出ないのが情けないね。まさかジャンボの口から言われるとは夢にも思わなかった…」



天龍、感心 「ジャンボ、カッコいいぞ!」

1992年、鶴田選手はB型肝炎に倒れ、第一線を退きました。
そして、筑波大学大学院に入学し、教授レスラーになることを夢見るようになりました。

そんな鶴田選手の姿に天龍選手は…。

「難しい状況のなかでも前向きにひとつひとつ殻を破って突き進んで、教壇に立っているんだなと思ったら"この人には勝てないな"と思ったし、"ジャンボ、カッコいいぞ!"って思ったよ」

鶴田と天龍、最後の会話

二人が最後に会話したのは、鶴田の引退発表直後(1999年2月)。天龍が電話を入れて「お疲れ様でした」と労ったという。それは全日本を辞めて別れの電話を入れて以来、9年ぶりの会話だった。2年間、アメリカ・オレゴン州のポートランド州立大学で教授を務めることを決めた鶴田は天龍に「帰国したら源ちゃんのお店(当時、経営していた『鮨處しま田』)に行くよ」と約束したというが、それは残念ながら叶わなかった。

出典日本プロレス事件史 vol.9 ザ・抗争 週刊プロレススペシャル(ベースボール・マガジン社)

ライバル鶴田の死…その時、天龍は

2000年5月14日、鶴田選手はこの世を去りました。享年49歳。あまりにも若すぎる死でした。

この前後よりB型肝炎は肝硬変を経て、肝臓癌へ転化かつ重篤な状態へ進行していた。鶴田は第三者らの進言もあり肝臓移植を受けることを決断。日本では親族間の生体肝移植しか認められておらず、親族で唯一血液型が合致した実兄がドナー候補となるも最終的に移植条件に合致しなかったため、日本での移植が不可能となり、海外での脳死肝移植に望みを賭けた。オーストラリアで臓器提供を待っていたところ、2000年春になりフィリピン・マニラでドナー出現の報を聞き、かの地へ急行・手術。ところが肝臓移植手術中に大量出血を起こしてショック症状に陥る事態が発生、治療の甲斐なく5月13日17時(現地時間では16時)に死去した。奇しくもこの日は、16年前にAWA世界ヘビー級王座から陥落した日であった。49歳没。戒名は「空大勝院光岳常照居士」。和田京平の著書によると、「鶴田は元々血を流すと止まりにくい体質であった」と記されている。

出典 https://ja.wikipedia.org

鶴田選手、急死の一報をマスコミから未確認情報として聞いた天龍選手は「くだらないガセ情報だ」と信用しませんでしたが、それが事実だと知ると心臓のバクバクは止まらなかったと言います。

「まさかジャンボ鶴田が俺より先に亡くなるとは思わなかった…」

天龍選手はマスコミの前でこう語りました。

2015年、天龍引退…男は亡きライバルの元へ訪れた

2015年11月15日、天龍源一郎引退。

彼が引退する前にどうしても訪れたい場所がありました。

それが山梨県にあるジャンボ鶴田選手の墓がある慶徳寺です。

ゆっくりとした足取りで天龍選手は慶徳寺に姿を現しました。

鶴田選手の墓を目の前にすると天龍選手はこうつぶやきました。

「ああ…ジャンボ…」

天龍選手は鶴田選手の墓前で語り始めました。

「俺もいよいよ、プロレスラー廃業という事で、その気持ちを(ジャンボに)心の中で伝えたんだけど…。このジャンボ鶴田は26年しかプロレスをやってなかったっていう想いが…。やはり凄いインパクトを残した選手なんだなって強烈に感じたね」

キャリア39年、65歳になった天龍選手にとって鶴田選手とはどんな存在だったのでしょうか?

「仲間として過ごしてきた時の方が印象にありますね。後で赤コーナーと青コーナーに分かれて闘うことになったけど、あれは"付録"みたいなものですよね。この墓を目の前にして思うことは…」

次に会う時は天国だ、ジャンボ…

最後に天龍選手は鶴田選手の墓前に語りかけました。

「もう会いに来ないね、ジャンボ。会う時は(天国)です…」

鶴龍対決は伝説となった

ジャンボ鶴田選手と天龍源一郎選手。
二人のプロレスラーが繰り広げた伝説の鶴龍対決。

それは二人のプロレスラーにとって、闘うことで鼓舞し、刺激し合い、人生観をぶつけ合い、技量と器量を激突させた最高峰のプロレスでした。

天龍選手は鶴田選手との抗争がきっかけでプロレス界全体にその名を轟かせ、後にミスタープロレスと呼ばれるほどの男にまで成り上がりました。
鶴田選手は天龍選手との抗争で、己の実力を満天下に示すことができ、怪物、完全無欠のエースと呼ばれるほどの男になりました。

鶴田選手も天龍選手、そして全日本プロレスを救ったのがこの鶴龍対決だったのではないでしょうか。

こうして鶴龍対決はプロレス界の歴史に燦然と輝く伝説となったのです。

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