もうすぐ、楽しみにしている映画「海難1890」が…教科書が教えてくれない日本人(と、勝手に私が命名)…2015年12月5日に公開されます。

映画って、2時間前後の時間の中に、長い、長い時の流れを、時代背景を、人の想いを、キュッと詰め込んだ濃縮エキスですから。。。

そのキュッと詰め込まれた濃縮エキスを、自分が美味しく味わう為に、時代背景や、「なぜ?」と疑問に思ったことを知ってから観る・・・。

すると、その映画を観たときに、もっともっと楽しみめるのではないかと思い。


勝手ながら…

なぜ、当時国交のなかったトルコから、エルトゥールル号が日本にやって来ることになったのか?

どうして、串本沖で台風に遭い沈没するという(なんで、そんな台風の時期に帰ろうとしたのか?)そんな不運なことになってしまったのか…を知りたくて。

現実として起こったエルトゥールル号事件を少し調べてみることにしました。

エルトゥールル号事件とは、

エルトゥールル号事件とは、紀州沖で台風に遭い、大爆発音とともに中央から艦体が真っ二つに割れ、数秒の内に荒れ狂う海に姿を消した(艦員650名、内587名死亡、内5名無事、58名負傷)歴史に記される海難事故でした。

では、なぜ…?「エルトゥールル号は、日本にやって来たのでしょうか」

1887年(明治20年)10月、小松宮彰仁親王のトルコ訪問がきっかけでした

小松宮彰仁親王は、その前年欧米歴訪の旅に出られ、アメリカ、イギリスを経てフランスに到着。

パリを拠点に周辺各国を回り。

その帰途にトルコの首都コンスタンチノープルに立ち寄られました。

そのとき、時のオスマン帝国皇帝アブデュルハミト二世は、小松宮彰仁親王を歓待し、親王は明治天皇からの贈り物である梅模様の硯箱を贈呈して帰朝(外国から日本に帰ること)されました。

さらに翌年、明治天皇は、小松宮彰仁親王に対するトルコの厚遇への返礼として、アブデュルハミト二世に感謝状と漆器を贈られました

この小松宮彰仁親王の訪問と、明治天皇からの感謝状および贈り物に対する答礼として、エルトゥールル号が日本にやってくることになったのです

「エルトゥールル号…って、どんな船?」

実は船自体はかなり古いものだったようです。

全長76.2メートル、幅15.1メートル、排水量2334トン、速力10ノットのエルトゥールル号は1863年に建造された木造帆船で600万馬力の蒸気機関をもってはいましたが、主に帆で航海する老朽艦だったのです。

当時のトルコ海軍は57隻の艦船を所有していましたが、実戦に使える船籍は6隻しかなく。

そのうち日本派遣に適しているのは4隻、このうち1隻は修理中などとの事情から、結局のところ老朽艦のエルトゥールル号が最適の艦船という状態だったようです。

これは、当時トルコが、1853年に始まったクリミア戦争で戦費を捻出するために外債を募集して借款を続けたため、1875年には利息の支払いが出来なくなり国家財政の危機に瀕していたからのようです。

「エルトゥールル号の航海」

1889年7月14日、エルトゥールル号はオスマン・ベイ氏以下、六百余名を乗せてコンスタンチノープルを出ます。

このとき訓練も兼ねて、海軍兵学校を卒業する官軍士官候補生、15名も含まれていました。

ですが出港から2週間後のスエズ運河でトラブル発生、水先案内人の不手際で砂州に乗り上げ翌日救出されるも…岸にぶつかり舵を損傷

このことから、エルトゥールル号での日本への航海は無理ではないかとの議論がおき、指示の遅れが出発を遅らせます。

結局、エルトゥールル号は、スエズを出発するのに2ヶ月をも費やしてしまいます

※因みに一説では、スエズ運河の通過料が予想外に高くて、通過料金を用意するのに時間がかかったからだとも言われているそうです。

・9月23日―スエズを出発。

・10月20日―ボンベイ到着(インド…当時のイギリス領)。

・11月1日―コロンボ到着(スリランカ…当時のイギリス領)。

エルトゥールル号には、行く先々の王族、高層たちが訪問し、他のムスリム(イスラーム教徒)たちも乗員を抱擁するなどして大歓迎を受けたそうです

乗組員たちも訪れたイスラーム教国では、必ず現地のイスラーム寺院へ参詣したそうです。

そして、一緒にアラーカリフとしてのトルコ皇帝ために祈りを捧げたことでアブデュルミト二世のもくろみどおりになったようです。

・11月5日―シンガポール到着(当時のイギリス領)。

※ここでの歓迎はこれまで以上のもので、付近のイスラーム教諸小国の王族たちだけでなく、ジャワ、スマトラといった島々からも多くのムスリムたちがやってきて、なかにはエルトゥールル号に接吻する人もいたそうです。

(この時代、今のように交通機関が発達しているわけではありませんし、まして他国の支配を受けている国の人々が、そう簡単にトルコにはいけなかったのではないかと思います。そんな中で、トルコから来たエルトゥールル号の姿は、ムスリムの人たちにとっては口で言い表せないくらい嬉しいことだったのではないでしょか。)


それで…、

このような状況を知ったアブデュルミト二世は、エルトゥールル号にシンガポール周辺を航海し、ジャワ島やその一帯のイスラーム教徒がいる地方に寄航しトルコの威信を示しなさいと指示しました。


そして、ここまでの航海の成功により使節団長のオスマン・ベイ氏は、大佐から少将、さらに総督へと昇進して「パジャ(オスマン帝国で高官、高級軍人に与えられる称号)」の称号を赦されて、オスマン・パジャと呼ばれるようになります。

もう一つの日本訪問目的(皇帝のもくろみ)

当時、ヨーロッパのキリスト教諸国の脅威に対抗する防衛策として生まれた、汎イスラーム主義(イスラーム世界を一つにしようという思想、運動のこと)を宣伝する狙いもあったようです。

※当時の欧州列強の領土内には多数のムスリム(イスラーム教徒)がいました。
例えば、
インドなどの(イギリスの支配地など)には、1億5000万人ものムスリムがいたそうです。


オスマン帝国
1299年に誕生したオスマン帝国は、14世紀にヨーロッパに進出し16世紀までに中東、アジア、ヨーロッパ、北アフリカにまたがる大帝国を築き最盛期を迎えるが、その後ヨーロッパに対して軍事的、経済的衰退が始まり19世紀には欧州列強の圧力が増し、それとともに支配か民族の独立運動が高まり・・。

この衰退期即位したアブデュルミト二世は、汎イスラーム主義を持って帝国の衰退と欧州列強の圧力に歯止めをかけようとしていたようです。


それに

アブデュルミト二世は、自分こそは正当なカリフ(全イスラーム教徒の指導者)ということを内外に示威すれば、欧州列強もうかつにはオスマン帝国に手を出さないであろうという目算が、エルトゥールル号の日本派遣のもう一つの目的だったようです。

が、しかし・・「シンガポールで大修理が必要になったエルトゥールル号」

ここまでの航海で、エルトゥールル号は船体の痛みがひどくなり、シンガポールで大修理が必要となっていたのです。

そこで、オスマン・パジァ氏は本国に対し、

船体の修理に時間がかかること

予定より大幅に日程が超過していること

極東(日本)に向かう都合のいい季節風はすでにやんでしまっていること

石炭や食料も底をつきかけていること


以上のことから、本隊はシンガポールで休養して、オスマン・パジャ氏以下二、三名の士官だけが別に客船で日本に渡り。

アブデュルミト二世の御親書および勲章を明治天皇お渡しして、すぐにシンガポールに帰る。

そして、エルトゥールル号で帰国の途につくことを許可して欲しいと連絡を入れましたが許されず…。

(これは、日本への訪問のもう一つの目的からすると、欧州列強の国には季節に関係無く日本に行き来することが出来るのに、なぜ?トルコには出来なのか=と、欧州にトルコの威厳を示す為にも許可されなかったのではないかと思もわれます。)

やむおうえず修理に専念するのですが・・、

木部部分だけに手を入れて、修理が必要だった機関室はそのままの状態で日本に向けて、エルトゥールル号がシンガポールを発ったのは…、

四ヶ月後の年が明けた1890年3月22日でした。

(この、機関室が完全に修理されていなかったことも…後の悲劇に繫がっていったように思われます。)


その後、サイゴン、香港、福州(中国)、長崎、神戸を経て横浜に着いたのが6月7日でした。

この間も2ヶ月以上経っていますが、これは暴風雨に遭遇してやり過ごしたり、石炭が足りなくなって補給したりして時間がかかったようです。

(こうして、時間がどんどん経ってしまい。これも、結果的に日本の台風時期に遭遇することの原因になっていたのだと思います。)

こうして、エルトゥールル号は約11ヶ月をかけて日本にやってきたのでした

「日本でのエルトゥールル号」

1890年6月7日 午前9時30分…エルトゥールル号は横浜に入港しました

エルトゥールル号からの祝砲に、日本側も答砲を放ってはるばるトルコからやってきた使節団を歓迎しました。

そして、オスマン・パジァ氏とその随員は鹿鳴館を宿舎としたそうです。
(その他の乗員はエルトゥールル号に残りました。)

6月12日…使節団一行は、上野の美術展覧会、内国勧業博覧会を案内されて午後6時半に皇居に入りました


明治天皇は、

トルコからの使節団と鳳凰の間で引見され(身分の高い人が相手の人を部屋に引き入れて会うこと)、オスマン・パジャ氏は、アブデュルミト二世から預かった親書とトルコ国最高のイムチャイズ勲章、贈呈品を奉呈(つつしんで貴人に差し上げること)しました。


・このとき、明治天皇より、使節団一行には勲章が贈られました

「なぜ、6月12日に使節団としての役目を終えていたエルトゥールル号が、9月の台風シーズンに日本を出港したのか?」

・エルトゥールル号が横浜港に入港した当時、日本では コレラ が大流行していました

特に被害が集中していたのは東京と大阪ですが、横浜市内を散策し、ラムネなどを飲んで帰ってきた一人の乗組員が発病

その日のうちに死亡したそうです。


・報告を受けた日本側から、遺体の火葬とエルトゥールル号の消毒を勧告したが、火葬は宗教上の理由から(認められない)、艦の消毒は本国の指示がないことから行われなかったそうです。


そのため、遺体は感染の心配がないように消毒して水葬され、エルトゥールル号は陸上との交通を断ちましたが、コレラの疑いがある症状を示す乗乗組員が次々と現れ、やむなく患者を収容し、艦を消毒するために長浦(横須賀市)に入港しましたが、日本側の賢明な治療も虚しく…。

結局、12名の乗組員が死亡しました。


このため、エルトゥールル号の帰国が大幅に遅れることになるのです。

(これが、日本の台風シーズンとエルトゥールル号の帰国時期が重なってしまった最後の大きな原因のひとつだったんですね。)



因みに、このとき全力で治療に当たった人物は、ジョン万次郎の息子さん(東京衛生試験所長の中浜東一郎氏)だそうです



9月15日…エルトゥールル号、長浦(横須賀市)を出港
(横浜到着から3ヶ月以上も過ぎていました。)


そして…この時期、

日本側は、台風シーズンでもあり、エルトゥールル号はボイラーの修理を必要としていたので、このさい徹底的に修理したから帰路につくように進勧めましたが、本国から帰還費用も乏しく、予定も大幅に遅れているので早急に帰国するようにとの指示がされていたようで、オスマン・パジャ氏はそれに従うしかなく、出発を強行したことが、エルトゥールル号の悲劇を生むことになったのです。

「エルトゥールル号の悲劇…暴風雨のまっただ中に突入」

エルトゥールル号は、まず神戸へと向かいました。

その途中の9月16日、紀州沖で台風に遭遇することになるのです


9月15日午後4時25分…中央気象台は、「低気圧が高知で1007ヘクトパスカルを示し、晴雨計がにわかに降下、なお北東に向かい進行している」という暴風警報を出しました。


その様な暴風雨のまっただ中にエルトゥールル号は突入して行ったのです


エルトゥールル号が出航した午前中は、まだ晴れていましたが、午後のなると風が強くなり、夕方には暴風が襲いました。

※このときエルトゥールル号は、港への避難を考えましたが、艦が入れる港は横浜か神戸で、丁度中間地点にいたエルトゥールル号は検討のすえ、立ち寄る予定の神戸に向かいます。


ですが、暴風雨の勢いは時間を追うごとに増していき、夜には正面からの風でメインマストが根元から折れます。

こうして、エルトゥールル号は自然の猛威の中でなすがままの状態になったのです。


そして、炭庫への浸水…。

艦を勧めるには蒸気機関を使うしかありません。

石炭が使えなくなることは命取りです。

水兵たちは激しく揺れる中、必死の応急処置に取り組み、石炭を焚いて艦を前に進めようとしますが、激しい暴風のなかでは思うようには進みません。


それでもエルトゥールル号は、紀州大島の灯台近くまで進んでいましたが、その時これまでで最も激しい暴風雨がエルトゥールル号を襲い激しく浸水し、舵は壊れ、機関部に海水が入りスチームパイプが爆発して、その場にいた機関士8人が死亡


エルトゥールル号は嵐に身を任せるしかなくなり、午後9時半頃…、船甲羅(ふなこうら)岩礁群と呼ばれる岩礁に激突


大爆音とともに中央から真っ二つに割れ
、エルトゥールル号は数分のうちに荒れ狂う海の中に姿を消し乗組員たちは海に投げ出され或いはエルトゥールル号とともに海底に沈んだのです。


これが、エルトゥールル号の悲劇、歴史に記される海難事故でした。

エルトゥールル号が『なぜ艱難事故に遭うことになったのか』の時間の流れを頭に置いて、私にはこの映画を観たい(感じたい)点が二つあります


一つは、
・この当時の日本は、今とは違い、決して裕福な暮らしをしていた訳ではないこと。

事件が起きた年も作物が不作で、村民は自分たちが食べることにも困っていただろうに、非常食に飼っていた鶏を惜しげも無く遭難者に食べさせています。

治療に当たった医師たちは、全員、報酬も治療に使った薬の代金も一切請求しませんでした。

そして、村民、医師が力を合わせ不眠不休で治療に当たり、言葉も通じない遭難者を励ましつづけたのです。

さらには・・、

救助が終わっても、遭難した乗務員たちが大島村を去った後でも、大島村の人たちは打ち上げられる遺体を丁寧に葬るという辛い仕事をやってのけたことです。



もう一つは、
・肌の色で人の優劣を決める、決めていたのでしょうか…。そんな、理不尽な人種差別が大手を振って(世界では)まかり通っていた時代に、日本人としてどう誇り高く生きていたかを知りたいと思いました。

それは、この…、エルトゥールル号の海難事件が起こる4年前のノルマントン号事件がありながら…なおも遭難者を助けた和歌山県東牟婁郡大島村の人たちの=日本人の誇りを知りたいからです

このノルマントン号事件は悲しくて、そして悲しい分だけ、それに比例するように怒りがわき上がる事件です。

もし、私なら…と考えると、果たして、その後、異国の人間を分け隔て無く助けることができますか?と自分に問えば、・・・出来ないかもしれません。

でも、現実問題として大島村のみなさんは異国=海難事故に遭ったトルコ人を誠心誠意込めて助けられたのです。


という場面が、多くの俳優さんによってどんな風に表現されているのか、見おわった後に、自分にどんな感動を与えてくれるのか?が、すごく楽しみだということです。

<ノルマントン号事件>

1886(明治19)年10月24日夜、紀州沖でイギリスの貨物船ノルマントン号が暗礁に乗り上げて沈没したが、ドレイク船長以下イギリス人船員は自分たちだけがボートに乗り移り…。

日本人乗客は置き去りにされ、結局日本人は全員が死亡。

他にインド人、中国人の乗組員も死亡。

ですが、海難事故発生当時、日本人が見捨てられた事をしらない大島村の村民たちは、懸命にイギリス人乗組員たちを救助しました

後にこの事実が分かり、ドレイク船長の非人道的な行為に日本国民が激怒、横浜のイギリス領事裁判で審理されますが、有罪となったドレイク船長の刑は禁固三ヶ月と軽いものでした

(この事件は、日本人に治外法権撤廃の必要性を強く認識させた事件だったそうです。)

【当時の常識では、多分、民主的、人種的な差別が当たり前の世界だったのでしょう。日本人の「困っているときは互い様」の精神より。白人第一主義のほうが遥かに優先していたのが世界の考え方だったのだと思います。ですから、命の順番が彼らの中で決まっていて…。日本人やインド人、中国人が何人死んでも彼らの命よりも軽い…と考えられていたのではないでしょうか…。それとも、そんなことは関係なく、職業的適性や責任感に欠けた人間に船長という重要なポストを与えていたのでしょうか。】

この、あまりにも悲しい、人としての優しさや、思いやりのない身勝手な出来事…ノルマントン号事件があったことを心に刻んで…、

内野聖陽さんが演じる医師が、海難事故で遭難したエルトゥールル号の乗組員を救助すう場面で「どこのもんでもかまん、助けなあかん(予告編の台詞)」を聞いた時に、それは、ただの言葉を越えての思いがあるように感じて…。


私には、このシーンが、(この予告編の一行の台詞が、)

後の世の…、(異国の人間を助ける)

テヘランでのトルコの人たちが日本人を助けてくることの意味(エルトゥールル号事件のことを忘れずにいてくれたトルコ人の誇り)と、その言葉が持つ力が時を超え ても、なお人としての誇りは生き続けるのだということが、どのような形で映画の中に表れているのか。

どんな風に見せてくれるのか。

自分の中にあるどんな気持ちを揺さぶってくれるのか。

そして、教科書が教えてくれない日本人が、映画を見おわったあとに…、どんな感動を自分に与えてくれるのか、なにを教えてくれるのか、公開がスゴく待ち遠しい、楽しみな映画なんです。


この記事を書いたユーザー

しーちゃん このユーザーの他の記事を見る

知らないことが知りたくて、メンタル、カルマ、礼法に漢方スクール…etc.とお勉強。で、ですね、人を動かしているのは無意識、でも、この無意識を味方につけるとスゴいんだ~と気づいたら…、なぜか、「えっ?!そうくるかぁ~」と、色んな場面に遭遇しれしまう…という面白いことが起こりだすのでした。

得意ジャンル
  • 社会問題
  • 国内旅行
  • グルメ
  • 暮らし
  • 感動
  • コラム
  • おもしろ

権利侵害申告はこちら

Spotlightのライターなら1記事最大3000円もらえる!日本最大級メディアでライターデビューのチャンス