現在、人気急上昇中の新日本プロレス

今またプロレスが盛り返してきている。
2000年代はPRIDEやK-1などの格闘技勢に押されて瀕死の状態だったが、ここ数年じわりじわりと人気を伸ばしてきた。
その中心にいるのは、業界の盟主・新日本プロレスだ。英雄・アントニオ猪木が立ち上げ、長州力、タイガーマスク、前田日明、橋本真也など、無数の名選手を輩出してきたメジャー中のメジャー。一時期、経営不振に陥っていたが、現在は完全に立ち直った。
今のプロレスブームは、新日本プロレスブームとそのまま言い換えることができる。

出典 http://www.excite.co.jp

暗黒期の新日本プロレス

現在、人気急上昇の新日本プロレス。
しかし、今回取り上げるのは新日本の復活劇ではなく、停滞していた時代…新日本プロレスの暗黒期なのです。

新日本プロレスの暗黒期とは一体いつから始まったのでしょうか。

そのきっかけは1999年1月の橋本真也選手VS小川直也選手の不穏試合からだったと言われています。これ以降、新日本プロレスはオーナーであるアントニオ猪木氏の現場介入により格闘技路線に走り、多くの選手やスタッフの離脱を招き、徐々に観客動員や試合内容のクオリティー、売上は下がっていきました。

本格的な暗黒期に突入したのは2004年からだったでしょうか。
新日本プロレスを放映していたテレビ朝日の中継が1時間から30分に縮小し、オーナー介入や、政治関係などの外部的要因と選手のモチベーションの低下、テーマの見えない戦いの連続などが重なり、新日本プロレスは業界の盟主の座から転落しました。

そして2005年には不渡りを出し、倒産危機に直面しました。
その後、ゲーム会社のユークスがオーナーとなり、新日本プロレスは持ち直し、地道に地盤固めに執心し、2012年にカードゲーム会社のブシロードがオーナーになると、新日本プロレスは飛躍し、売上は倍増したのです。

新日本プロレスの暗黒期とは1999年がきっかけとなり、2004年に表面化し、2007年辺りまで続いた長き低迷時代のこと言うべきかもしれません。

暗黒期の新日本プロレスでマッチメーカーとなった男

2002年、暗黒期に入りかかっていた新日本プロレス。多くの選手やスタッフが離脱し、プロレスから格闘技にスライドしていくファンが続出する中で一人の営業マンがマッチメーカーに就任しました。

マッチメーカーとは試合の大まかな流れを決定したり、対戦カードを決定する試合や現場における最高責任者のことです。

新日本プロレスは過去、坂口征二選手や長州力選手と言ったレスラーがマッチメーカーとして現場を仕切っていました。また新間寿氏や永島勝司氏といった背広組が交渉の場に立ち、数々のマッチメイクを実現させていきました。

その中で新日本プロレスはマッチメーカーに任命したのは営業課の上井文彦氏だったのです。

彼が歩んだ「プロレス・ゼロ年代」とは…。

アントニオ猪木と新間寿の和解

上井氏が最初に手掛けた大仕事は当時犬猿の仲となっていたアントニオ猪木氏と新間寿氏の和解でした。

当時、新間さんを筆頭に、さまざまなOBたちが口々に新日本の悪口をいろいろな媒体で言い立てていた。私はその状況に苦々しく思っていた。
(あの人たちの口封じをしないとなぁ!)
かねてよりそう思っていた私は、まずその急先鋒である新間さんの口を封じるべきだと思った。それにはスポーツ平和党時代のスキャンダルを発火点にした猪木会長との確執を取り除く必要がある。

出典「ゼロ年代」狂想のプロレス暗黒期 上井文彦 著(辰巳出版)

上井氏はアントニオ猪木氏との会話でこの件に触れ、和解への道筋をつけ、東京スポーツの櫻井康雄氏の仲介によって、猪木氏と新間氏の和解に成功させました。

上井文彦時代のマッチメイク体制

現場の責任者には私よりも先に蝶野正洋が就任していた。彼の役割は現場に睨みを利かせることと、新日本の顔としてファン、マスコミの前面に立ってもらうこと。私はそう解釈していた。だから、さまざまなマッチメイクや企画を立案しても、まず蝶野に許可を取った。蝶野が嫌がるようなことはしたくなかったのだ。(中略)そういう理由もあって最終決定権は蝶野に委ねていた。その蝶野とは別に自分の補佐役としてセカンドブッカーという役職もつくった。ヘビー級は平田淳嗣(スーパー・ストロング・マシン)、ヒロ斎藤、後藤達俊の三人のベテラン選手、そしてジュニアヘビー級には外道を指名した。彼らに求めたのは、私の意思を選手達に疎通させる役目である。(中略)
私がレスラーに直接試合の意図を伝えたりする機会はほとんどなかったと言っていい。ただし、私なりに気付いたことは言う事もあった。簡単なアイデアぐらいは出して、アドバイスをしたりもした。

出典「ゼロ年代」狂想のプロレス暗黒期 上井文彦 著(辰巳出版)

プロレス結社・魔界倶楽部

上井氏が手掛けたマッチメイクは新たなヒール集団を結成でした。

元プロレスラーで喧嘩屋と呼ばれた星野勘太郎氏をボスとして担ぎ、格闘技系の選手や腕に覚えアリのプロレスラー達が集まった「プロレス結社・魔界倶楽部」です。

アントニオ猪木を神とあがめ、自分たちこそ真の闘魂継承をうたう星野勘太郎を総裁とし、「安田忠夫親衛隊」「アントニオ猪木近衛軍団」を名乗るヒール軍団として新日本プロレスを席巻した。星野の決めゼリフ「ビッシビシ行くぞ!」はプロレス流行語大賞を受賞した。
集団の原点は1980年代に一世風靡したマシン軍団を模倣している。

出典 https://ja.wikipedia.org

私がマッチメイカー時代の最大のヒット作といえば、「魔界倶楽部」と呼ばれた軍団である。この軍団は「強い新日本プロレスを取り戻す」という作業の一貫として組織した。私は喧嘩の強い集団を作りたかったのだ。魔界倶楽部のメンバーを思い出してほしい。
 柳澤龍志、安田忠夫、長井満也、柴田勝頼、村上和成…。そう、皆、総合格闘技経験者やガチンコに強いと言われる人間ばかりだ。
 魔界倶楽部という軍団名も私が命名した。確かにマンガチックな名前ではあったが、メンバーを見てもらえれば私が組織した意図をわかってもらえるだろう。

しかし、この軍団の肝はなんといっても、星野勘太郎さんだった。
既に現役を退いていた星野さんに私は魔界倶楽部のマネージャーを務めてほしかった。星野さんといえば、現役時代は小兵ながら腕っ節の強さでならした人である。

出典「ゼロ年代」狂想のプロレス暗黒期 上井文彦 著(辰巳出版)

魔界倶楽部は視聴率に貢献した

魔界倶楽部が暴れ始めてから『ワールドプロレスリング』の視聴率に変化が生まれてきた。この頃、深夜1時40分から一時間の視聴率はだいだい2.5%~3.5%くらいだ。2002年9月9日(土)放送ではいつもは2.5%の前半30分がなんと3.5%~4.0%になっていたのだ。前半は言うまでもなく星野総裁率いる魔界倶楽部の登場だった。

当時、松本仁司プロデューサーがこう解説している。

「魔界倶楽部を頭に持ってきて数字を稼いだ。時間帯から見て、プロレスファンではない人が見てくれたんだと思います。魔界倶楽部はプロレスファンじゃなくても、初めての人でもわかりやすいプロレスをする。数字を稼いだ原因はそこなんじゃないですか」

出典日本プロレス事件史 vol.3 年末年始の大波乱(ベースボール・マガジン社)

土下座外交と呼ばれ…強力な外敵来襲

若手が強くたくましく成長していくために、壁はもっと高くて分厚いほうがいい。その高い壁を乗り越え、生え抜きの若手たちがトップに立つ。それが私がマッチメーカーに就任してから思い描いていた青写真だった。そして、私は外部の選手にその壁の役割を求めた。武藤や橋本といったトップ勢が出ていったあとで、この当時の新日本には若手の高く厚い壁になれるような選手がいなかったからである。

後年、私が「土下座外交」をしていたと揶揄されることがあった。他団体やフリー選手で溢れていた当時の新日本のリングを見て、ファンやマスコミはそう思ったのだろう。
(中略)
新日本のレスラーたちが負けてばかりだったので、所属選手を冷遇していたように見えたのだろう。もっとあとには、「外部の人間にあんなにギャラを払いやがって!」などという陰口も耳に入ってきた。

言いたい人間には言わせておけばいい。こっちも新日本を盛り上げるために必死だった。

出典「ゼロ年代」狂想のプロレス暗黒期 上井文彦 著(辰巳出版)

新日本プロレス×総合格闘技

2003年5月2日東京ドーム大会で上井氏はとんでもない企画を立案し実現させました。

新日本のリングで総合格闘技の試合を組んだです。

総合格闘技の数試合とプロレスの数試合をマッチメイクした新日本プロレス内でのプロレスと総合格闘技の団体内コラボ興業。

この企画の意図と裏側には何があったのでしょうか?

ハッキリ言ってしまおう。この当時、私の最大の目的は総合格闘技を駆逐することであった。
(中略)
「新日本こそ最強である」と信じていた私の自信は、他団体のプロレスラーが総合格闘技で負けようとも揺らぐことはなかった。
(中略)
「業界の盟主を自認する新日本の腰が引けていていいのか?」、「ストロングスタイルを提唱する新日本がやらないで、どこがやるんだ!」、そういった半ば使命感のような気持ちが私の中にはあった。
(中略)
2003年の年頭。私は1つの企画書を作成した。1.4東京ドーム大会が終わり、次のドーム大会は5月2日に決まっていた。その目玉企画を立案したのだ。それが『ULTIMATE CLASH』だった。
それは新日本のリングで総合格闘技の試合をやってしまおうということだった。
(今までよそのリングで好き放題にこてんぱんにやられてきたけど、だったらホームリングで逆にこてんぱんにやっつけてやりゃあええ。これはおもろい企画なんやないか?)
私はほくそ笑みながらこの企画書を書き上げた。そして、蝶野正洋に見せたのだ。
(中略)
私はまず先に蝶野VS小橋建太という超絶ドリームカードをマッチメイクしていたのだ。
(中略)
翌日、蝶野から電話がかかってきた。
「上井さん、これめちゃくちゃ面白いよ。やろうよ」
(中略)
「わかった。蝶ちゃんがそう言ってくれるなら、俺やるよ」
(中略)
猪木会長も「面白いじゃねぇか。やれよ」と賛意を示してくれた。

出典「ゼロ年代」狂想のプロレス暗黒期 上井文彦 著(辰巳出版)

その後、このイベントを開催したことが呼び水になったのでしょうか。K-1参戦や、ブラジルで開催された「ジャングル・ファイト」、年末に行われた総合格闘技イベント「猪木祭り」などに多くの新日本の選手が参戦し、中邑真輔選手などの格闘技に対応できた選手以外は敗れていき、総合格闘技に討ち入りすることによって、「プロレス」の看板と誇りはますます崩壊していったのです。

新・闘魂三銃士

上井氏が手掛けた路線の中に、現在の新日本にストーリーラインとして残っているものがあります。

それは2004年に新日本が売り出した「新・闘魂三銃士」です。

これはユニット活動をしたわけでなく、今やプロレス界のエース棚橋弘至選手、当時史上最年少のIWGP王者となった若きスター・中邑真輔選手、喧嘩ストロングスタイル・柴田勝頼選手の三人のライバルが成長していくプロジェクトとも言うべきものだったのかもしれません。

ちなみに新・闘魂三銃士は互いに仲が悪く、互いが「新・闘魂三銃士」の枠で括るなというギスギスの関係だったのです。

2004年ごろ、僕、中邑真輔、柴田勝頼の三人は「新・闘魂三銃士」として売り出された。これに中邑と柴田は猛反発したけれど、僕は否定しなかった。

「この三人の中から誰か抜け出すのか。それをファンは注目している」

そう発言することで、「この三人の中から次の新日本のエースが出てくる」という期待感を煽り、注目を高めることを考えた。
(中略)
でも僕の、こういう「優等生的な部分」が中邑と柴田には鼻がついていたのかもしれない。

出典棚橋弘至はなぜ新日本プロレスを変えることができたのか 棚橋弘至 著(飛鳥新社)

(「新・闘魂三銃士」について)それはもうイヤとしか言いようがなかったですね。なんか、個人的に引き戻されるような感覚があったんですよ。自分は自分で一生懸命、前に向いて突っ走ってやっているし…
(中略)
棚橋にしろ、柴田にしろ、まず俺にしてみれば、"先輩"という気持ちがあるわけですよ。その頃の棚橋とも何か用事があるときしか、話をすることもないし…
(中略)
まあ、棚橋にすれば、下の人間が注目を集めていたことに憤る部分はあったのかもしれませんね。

出典新日本プロレスブックス 中邑真輔自伝 KING OF STRONG STYLE 2005-2014 中邑真輔 著(イースト・プレス)

いつ頃から、この名前(新・闘魂三銃士)で括られたのかは覚えていないが、だいたいこの年(2004年)の始め頃からだろう。
(中略)
「俺をあいつらと一緒に括るんじゃねぇ!」
自分はそう反発した。正直、この頃の二人が大嫌いだった。棚橋はチャラチャラとしていたし、中邑はスーパールーキー扱いの特別待遇が気に食わなかった。プロレス観も合わなかったし、一緒にされるのが心外だった。

出典同級生 魂のプロレス青春録 後藤 洋央紀 柴田 勝頼 著 (辰巳出版)

元新日本プロレス社長・坂口征二の復帰

私は話題性の高い、インパクトのあるカードを組みいれることも常に頭の中に入れていた。その中で思い浮かんだのが、坂口さんの復帰だった。
(中略)
最初は坂口さんも、「勘弁してくれよ。もうその話はやめてくれ」と照れて、まともに話を聞こうとはしなかった。
(中略)
私は舞台を整えた。蝶野正洋と髙山善廣の金網デスマッチの立会人を坂口さんにやってもらった理由は、リングに引っ張り出すためだ。ここで髙山に襲撃でもされれば、プロレスラーとしての本能に火が付くのではないかという読みがあった。
(中略)
髙山にギロチンドロップを喰らった坂口さんは、一気に「やっちゃるけん!」となったのだ。

出典「ゼロ年代」狂想のプロレス暗黒期 上井文彦 著(辰巳出版)

元新日本プロレス社長で現在は相談役である坂口征二氏は二試合だけリングに復帰した。

2003年9月の名古屋大会と10月の東京ドーム大会だった。

リング復帰を果たした坂口氏は上井氏に「ありがとう、おかげで充実した時間を過ごせたよ」と感謝されたと言います。

興業不振、不協和音…暗黒期本格突入し、遂に退社

暗黒期の新日本プロレスについて、当時リングアナウンサーを務めていた田中ケロ氏はこう語っています。

――あのときの新日本は危機的な状況だったんですか?

ケロ という話ですよね。かなり厳しい。それでいろんなことをやりだそうとしたけど、上井さんのマッチメイクがよくなかったですね。総合寄りじゃないですか。プロレスができない人ばっかり集まって。
――あとフリーの選手を優遇してましたね。
ケロ 「猪木さんが許可してる」と言うんですけど、「こんなプロレスを本当に許可してるのかな……!?」って疑問でしたねえ。上井さんも新日本より猪木事務所への出入りが多かったですし。

出典 http://ch.nicovideo.jp

Dropkick
【新日本プロレス伝説】2015年元旦、今年は春から田中ケロ見参!!

2004年6月、新日本プロレスは藤波辰爾社長から猪木氏のルートから招聘された経営コンサルタントの草間政一氏が新社長となりました。

草間氏は経理関係を見直しを図りましたが、現場サイドからの反発を食らい、また試合内容も低調に終わるような内容が相次ぎ、観客動員に苦戦します。

興業不振、観客動員減少、内部の不協和音…それが重なり新日本プロレスは本格的に暗黒期に突入していきます。

遂にはその理解不能や消化不良な試合内容に会場では暴動寸前の異常事態になりました。

上井氏は元新日本の長州力選手をリングに乱入させた首謀者として責任が追及され、またマッチメイクや会社に行き詰まりを感じていました。

そして、上井氏はある決断を下します。

私がマッチメーカーに就任した時は、武藤敬司たちが出て行ったあと(2002年)である。新日本の業績はあれ以降、下がりっぱなしだった。私が様々なマッチメイクを出したのも、その凋落傾向を止めるためだった。しかし、業績が上がり兆しは一向に見えなかった。

社内の雰囲気にも嫌気がさしていた。誰が嫌だというわけではない。
(中略)
精神的に私はいっぱいいっぱいだったのだ。
(もう辞めよう…)
気持ち的にはもうこの仕事から逃げたくて仕方がなくなっていた。
(中略)
両国大会の3日後の10月12日、私は草間社長に辞表を提出した。
(中略)
オフィスを出てから、マッチメーカーになってからのことが走馬灯のように駆け巡ってきた。
(中略)
大好きな大好きなライオンマークともこれでおさらばかと思うと、自然と涙がこぼれてきた。
 しかし、もう後ろを振り返ることはしなかった。先のことなどわからない。だが、私は前に進むしかないのだ。新日本を離れようと、私の心にはいつもライオンマークの神様がいる。私はそう信じ、新たな人生へと一歩を踏み出した。

出典「ゼロ年代」狂想のプロレス暗黒期 上井文彦 著(辰巳出版)

その後の上井文彦…彼のプロレス終着駅は上井駅だった…

2004年10月に新日本を退社した上井氏は2005年に、新日本プロレスを離脱した柴田勝頼や村上和成の元魔界倶楽部のメンバーとともに新団体ビッグマウスを旗揚げします。

その後の上井氏の足跡です。

2005年1月 - ビッグマウス立ち上げを表明。前田日明も協力を表明。
2005年9月 - 後楽園ホールで旗揚げ戦。
2006年2月 - 意見の相違から、前田日明がビッグマウスからの離脱を宣言。
2006年10月 - ビッグマウスから離脱。事実上の倒産。
2006年11月 - UWAI STATION旗揚げを発表。
2006年12月3日 - UWAI STATION旗揚げ興行を開催。
2007年4月4日 - 53歳の誕生日に上井二三彦と改名。
2007年10月6日 - UWAI STATION最終興行を開催。

出典 https://ja.wikipedia.org

上井氏はUWAI STATION(通称:上井駅)の終了から一年後の2008年にプロレス界から足を洗うことを決意します。

私はプロレス界から完全に身を引く決心をした。
(中略)
2008年12月の西口プロレスの大阪大会プロモートしたのを最後に、私はそのまま大阪に移住した。
(中略)
私は今、大阪でとある製造会社とリース会社の間を取り持つ仕事をしている。
(中略)
ビッグマウスと『UWAI STATION』で作った借金との闘いはこれからもまだまだ続く。先は長い。しかし、うつむいて生きていても、借金が返せるわけではない。人からは厚顔無恥と思われようと、明るく元気に生きるのだ。

終着駅が見えるその日まで、私は返済という名の線路を走り続ける。

出典「ゼロ年代」狂想のプロレス暗黒期 上井文彦 著(辰巳出版)

暗黒期は今の新日本にとって反面教師

かつての新日本といえば、創設者であるアントニオ猪木をはじめ、長州力や藤波辰爾といったスター選手を輩出。1990年代に入ると武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也の「闘魂三銃士」が一時代を築いた。1997年には過去最高となる39億3310万円の売り上げを達成。翌1998年にはアントニオ猪木の引退試合で東京ドームに7万人を動員するなど、絶頂期を迎えた。


しかし、2000年代になると風向きが変わる。「K-1」や「PRIDE」といった格闘技が一大ブームを巻き起こしたのだ。

「人の殴り合いって凄惨なモノ。血が出るし、顔の形も変わる。それを徹底的にメディアに露出して、その選手の背景までパッケージにしたのがK-1やPRIDE。試合も引き立って、魅力的だった」(新日本プロレスの手塚要社長)

一方、当時の新日本のメディア戦略は能動的ではなく、あくまで受け身だった。テレビ朝日系列で「ワールドプロレスリング」という番組が放映されるほか、「週刊プロレス」などの紙媒体でも試合内容が伝えられた。自ら発信しなくても、どこかが報じてくれる状態が続いてきたわけだ。結果、既存のプロレスファン“以外”への訴求力は乏しく、人気は一気に衰退した。

そうした中で、1つの転換点が訪れる。2005年にオンラインゲーム会社のユークスが新日本を買収したのだ。「ユークスという上場企業の傘下に入って、経理回りなどがしっかりした。その結果、新日本という団体が“会社”として生まれ変わることができた」(手塚社長)。
会社としての礎を築くと同時に、経営が厳しい中でも新人選手の発掘を継続的に行ってきた。新日本の主要タイトルの1つであるIWGPインターコンチネンタル現王者の中邑真輔、昨年12月に開催されたタッグリーグ戦を制した後藤洋央紀、IWGPジュニアヘビー級王者の田口隆祐らは全員2002年入団の同期だ。苦しい時代に新日本の門をくぐり、もがき苦しんだ選手が今のリングを支えている。
(中略)

出典 http://toyokeizai.net

これが新日本プロレス、闘魂の復活劇だ!1.4東京ドーム決戦は通過点にすぎない【又吉 龍吾 :東洋経済 編集局記者】

現在、人気急上昇中の新日本プロレス。
実は暗黒期での苦労が今日の新日本プロレスの礎となっています。

上井氏が暗黒期にセカンドブッカーとして登用した外道選手は現在、マッチメーカーの一人として今日の新日本プロレスを支えています。

新日本プロレスのオーナーである木谷高明氏はこのように語っています。

今でも感心するのが、今年(2015年)の1月、後楽園ホールのスタッフの控室に行くと、置いてあったのが「のり弁」だったことなんですよ。
(中略)
菅林(直樹・新日本会長)さんに「そろそろ、高い弁当に変えないんですか?」と訊いたら、「苦しかった時のことを忘れないように、これだけはこのままにしておこうと思っています」と言うんですね。立派だなと思いましたよ。新日本はそこまで経費を削減していたということですよ。

出典日本プロレス事件史 vol.7 春の本場所 (ベースボール・マガジン社)

新日本をある種、呪縛していた「ストロングスタイル」からの解放、最強のプロレスから最高のプロレスへの方向転換、格闘技路線ではなく純プロレスへ特化、脱・殿様商売からの脱却、SNSを使ったプロモーションの有効活用など、暗黒期で味わった苦渋と教訓を糧にして、新日本プロレスは黄金時代に向けて驀進しています。

そう考えると一部では「新日本プロレスの低迷と混乱の元凶」と言われている上井氏がマッチメイクを手掛け何かと批判が多かった暗黒期の新日本プロレスは、今の新日本プロレスにとっての反面教師となったのかもしれません。

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