映画がまだ銀幕といわれていた、あの頃。
ハリウッドに黄金時代をもたらした、あの時。
世界中のひとたちが魅了された、女優達がいました。

そして、彼女達の人生は波乱万丈でもありました。
そんな彼女達が残してくれた名言は、時間を越えて今も尚、
私たちに響くものがあるのです。


マリリン・モンロー

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人生は自分で築くものよ。そりゃあ、失敗することもあるわ。でも、悪いことばかりじゃない。どんな失敗をするかは自分で決められるものよ。

私生児として生まれ、母親が精神病院への入退院を繰り返していた為、里親や孤児院を転々とする暗い子供時代を過ごす。16歳の時に工員(ジェイムズ・ドアティ)と結婚するが離婚後、男性雑誌のモデルなどをして生計を立て、46年にFOXと契約を結んで47年に“Dangerous
Years”の端役で映画デビュー。売れない時期が続いたが、52年、「ノックは無用」で初主演して注目をされるようになり、以後、「ナイアガラ」、「紳士は金髪が好き」などで人気を不動の物とする。

故ケネディ大統領などとのスキャンダルもあるが、結婚は3回で、工員と、野球選手のジョー・ディマジオ、劇作家のアーサー・ミラーだが、その全てが離婚に終わっている。そしてディマジオとよりを戻しつつあった62年8月4日、ロサンジェルスの自宅で、睡眠薬の多量摂取により死亡しているのが発見される。享年36歳。その後、自殺説などの噂が流れるが原因はいまだ不明。撮影中だった作品は製作中止となった。“性のシンボル”の代名詞とも言われ、世の男性陣を魅了し続けた彼女も内面的にはかなり複雑なものがあり、その経緯を題材にした「ノーマ・ジーンとマリリン」が後に製作されている。

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悲しい生い立ちから、愛を求めて生き続けたモンローらしい言葉です。
挫折しても、また立ち上がって生きていこうとする力強さを感じる言葉です。











キャサリン・ヘップバーン

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すべてのルールに従っていたら、
すべての楽しみを逃しちゃうわよ。


飾り気のないスタイルと個性的な魅力、比類なき演技力で万人から愛された演技派大女優で、現在のところオスカー受賞4回という最多記録を持つ。著名な外科医の家庭に6人兄妹の2番目として生れる。12歳でアマチュア劇団の舞台を踏み、女子大でも演劇に熱中する日々を送り、卒業後エドウィン・ノッフの主宰する劇団に入りプロ・デビュー。同年ブロードウェイでも舞台に上がる。

32年の舞台で注目されRKOと契約し「愛の鳴咽」で映画デビュー。翌年の出演3作品目の「勝利の朝」で大絶賛され、アカデミー主演賞を受賞。40年の「フィラデルフィア物語」は、前年ブロードウェイで幕を開けると、すぐに彼女自身が映画化権を取得、MGMに持ちこんだという経緯もあった。

42年「女性No.1」でスペンサー・トレイシーと初共演し以降、計9本を共にして公私に渡って親密な関係を続けたのは有名な話(62年の“LONGDAY'S JOURNEY INTONIGHT”出演以降の5年間は映画に出ず、病に伏したトレイシーを彼の妻と交代で看病していた)。67年トレイシーの遺作となった「招かれざる客」で2度目の、翌年「冬のライオン」で3度目のオスカーに輝く。その後プロードウェイの舞台と映画に間隔を置きながら出演。81年の「黄昏」で4度目のオスカーを手中にした。「アフリカの女王」、「旅情」、「去年の夏突然に」も代表作として明記したい。

結婚は28年に学生時代から交際していたフィラデルフィアの名士の息子としたが34年に離婚。「招かれざる客」のキャサリン・ホートンは姪にあたる。03年06月、老衰のためこの世を去った。

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シンプルでナチュラルな魅力を持つキャサリンの言葉です。
自ら作品を売り込み、成功に導くというバイタリティ溢れる彼女ならではの言葉ではないでしょうか?








マリーネ・デートリッヒ

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愛することは楽しむことよ。
愛されるのを待つことじゃない。

幼い頃からヴァイオリンを習っていたが手首をケガし、それからは女優を夢見るように。演劇学校に入学直後から舞台に立つようになり、23年には映画デビュー。30年の「嘆きの天使」演出のため、ベルリンにやってきたジョセフ・フォン・スタンバーグ監督が彼女の立つ舞台を見たことからローラ役に抜擢。退廃的な魅力と抜群な脚線美と共に“フォーリング・イン・ラヴ・アゲイン”もヒットして世界的に有名になる。

その後アメリカに渡りパラマウントと正式契約。以降、スタンバーグの元でその実力を開花させて行く。が、37年の「鎧なき騎士」出演後に母国からヒトラーの使者が現れ、ドイツ映画に復帰するよう説得されるがディートリッヒはこれを完全拒否。そのためドイツでは当時彼女の作品を焼却処分にしてしまったという。その後39年にアメリカ市民権を取得。第二次大戦勃発後は前線慰問や反ナチ運動に積極的に参加して47年にはアメリカ国民最大の栄誉である“自由勲章”を与えられた。終戦後は「狂恋」でジャン・ギャバンと共演(実は恋愛関係にあったと後に発表)。53年からは名曲“リリー・マルレーン”などの歌で世界各地をリサイタルして廻り新境地を開いた(日本にも70年の大阪万博と74年に来日)。

結婚は24年に映画製作の助手、ルドルフ・シーバーと1度きりだったが殆ど別居状態のまま、彼の死まで離婚はしなかった。一女がいて48年には孫が誕生。“世界一グラマーなおばあちゃん”と揶揄されたことも。78年「ジャスト・ア・ジゴロ」が映画出演最後となって(「MARLENE/マレーネ」はナレーションのみ)92年、パリで老衰のためこの世を去った。

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アバンギャルドな風貌とは逆に、とても古風な一面を持った女優さんらしい言葉です。
彼女の威風堂々とした風貌が忘れられません。










イングリット・バーグマン

直感を鍛えなさい。
自分の中の小さな声に耳を傾けるのよ。
それに従えば全てが見えてくるから。

母親を2歳の時、父親を12歳の時に亡くし、叔父のもとで育てられる。幼い時から演技に興味を持ち、ストックホルムの王立演技学校にて演技を勉強。34年、「ムンクブローの伯爵」にて映画デビュー。39年に、彼女の主演作「間奏曲」のリメイク作品「別離」の主演によばれて渡米。以後、42年「カサブランカ」にて人気を確実にする。44年、「ガス燈」ではアカデミー主演女優賞を受賞。名実共にハリウッドを代表する女優になる。しかし50年、新しい演技への道を模索していた彼女は、当時、“ネオ・リアリズモ”の筆頭格にあったロッセリーニ監督の元に、スキャンダル報道の中、家庭を捨てて渡り、ハリウッドから事実上の追放を受ける(彼宛に送った熱烈な内容の手紙は有名)。その後の風当たりの強さにもくじけず、確たる演技にて57年「追想」にて再びアカデミー主演女優賞を受賞。以後も活躍を続け74年「オリエント急行殺人事件」にはアカデミー助演女優賞を受賞した。女優のイザベラ・ロッセリーニは娘。82年、67歳の誕生日にガンの為この世を去った。

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柔らかい風貌からは想像できない、強靭な精神を持った彼女らしい言葉です。
自らの意志を曲げずに自分を信じた言葉だと思います。











エリザベス・テイラー

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成功は、最高のデオドラント(防臭剤)よ!

美術商をしていた父の関係で39年に渡米し、ビバリーヒルズに住む。女優志望だった母に夢を託され、ご近所のツテを頼って42年にユニヴァーサル作品“There'sOne Born Every Minute”の端役で映画デビュー。翌年MGMと契約し、スタジオ内の学校に通いながら「家路」に出演。以降「緑園の天使」、「若草物語」、「陽のあたる場所」、「ジャイアンツ」等々、幼い頃から醸し出していた大人の雰囲気で映画ファンを魅了し、“リズ”の愛称で親しまれた。50年代後半からは名実共に円熟味を増し、「愛情の花咲く樹」、「熱いトタン屋根の猫」、「去年の夏突然に」と3年連続でアカデミー賞にノミネートされ、60年には「バタフィールド8」で主演賞を受賞。63年には「クレオパトラ」に出演。撮影中に大病を患ったりしたが、66年には「バージニア・ウルフなんかこわくない」で2度目のアカデミー賞を受賞。

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恋多き女性リズ。年齢を重ねても衰えない女性としての美意識が感じられる言葉です。

富と名誉を手に入れた往年のハリウッド女優たち。
彼女達から発せられる数々の言葉は、市井に生きる私たちの人生にも響いてきます。
何よりも大事なのは、自分の心に正直に、自分の本心をわかり、自分を愛してあげることではないでしょうか?

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東京が好きで、昭和が好きで、古い日本のドラマも好きで、カフェが好き。
忘れられかけている遠い記憶のことを掘り起こしています。

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